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2013年01月23日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-91-

表現の現象学について


現在、私は雑誌『詩学』に「私的表現考」というささやかな論考を書き続けているのだが、このなかで私は表現の現象学、すなわち表現論の現象学的叙述の問題について触れようとしている。

その論考の中でも述べるように、私にとっての現象学的叙述とは、「事象そのものへ」(Zu den sachen selbst)という現象学の基本的命題をはるかに越えた、人間的解釈の多様性の上に措定されているものである。

それは常に、人間の被表現性の問題であり、言わば人間の意識の内部の<存在>を「混沌そのものへ」という意志によって、表現論のなかに浮びあがらせる途方もない野望であるかもしれない。

いうまでもなく、現在はあらゆる人間的表現にとって厳しい時代である。詩にとってもそれは例外ではあり得ないはずである。私達は常に状況の側にのみこまれる不安(フロイト的な意味でのengulf)を意識の内部にくわえ込んだまま、どのようにしてでも非状況的な価値論を独立させようとしている。こうした私達の表現行為は、まったく新しい表現論の過程で完成されるべきものであって、過去の表現論のむし返しであってはならないと私は考えている。恐らく、現在の状況のなかで表現行為をなおかつ試みる人々の自我は、無意識的な巨大な抑圧にさらされているはずであって、こうした脅威が逆に私達を表現へ、表現へと駆りたてるのだろう。

一つの家族関係の歪みのなかで、その不合理性の象徴であるところの子供を、Identified personと呼ぶならば、私達は同じ意味性においてまさしく状況の内でのIdentified personであるに相違ない。

私は、表現の現象学はいかにも人間的解釈の多様性を持つと書いた。それは、この人間的解釈の多様性という課題を、より深くより積極的に評価すべきだということである。

表現を人間学的に、また現象学的に捉えようとした先駆者達はすべてこの課題の前で退行的逡巡を余儀なくされてきた。ビンスワンガーも、フランクルも、ボスも、レインも、ファノンもこの点では例外ではなかった。かつてヤスパースが述べたように彼等は「了解」と「説明」とを混同しているようにも見えた。
(Ⅱ表現論/表現の現象学についてつづく…)

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