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2013年02月09日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-92-
人間の意識の内部(=内的存在の問題)について、すべてを了解してしまったかのような叙述を行なうことは、すべてが理解できないということと同じだという批判もあった。
もっと末節的には、例えばレインが語る分裂病症例について、これは分裂病様反応であり、分裂病であり得ないとする反論もあった。
だが、今日私達の出発点はこの人間的解釈の多様性にある。私達はあらゆる体系的な論理を用いないで解釈の多様性の内へまっさきにのり込んで行こうとしている。私達が必要とする論理は状況から投射されるものでありながら否外在的なものである。
意図された誤謬(Intentional fallacy)という概念を作りあげたのは新批評派のエンプソンだが、私達もまず至るところの<学>、そして<権力>に対して心優しくひらきなおらなければならないだろう。この意味で、表現の現象学はまずもって状況のなかに突出していかざるを得ない。
私達が真に人間的な生存を企図する場合には、その準備段階として、私達が果し得るべき跳躍がなければならない。この跳躍の意味において個人に内包されているものが<表現>の中核である。それは例えば、おびただしい現状分析を展開したあとで、自己の生き方の投企として表現の側に近付いていった過去の実存主義者達の行為にも似ている。すなわち、ヤスパースにとっての悲劇の構造に、ハイデッガーにおける詩の意味に、そしてサルトルにとっての文学と政治への接近に。
同じことが、現代のレインの表現行為(表現集“Knot”等)にも認められるのではないかと私は考えている。
私達は、表現の現象学をまず人間的解釈の多様性の問題からはじめて、では一体どこに行きつくのだろうか。表現の現象学の収束する場所は一体どこにあるのだろうか。
解釈の多様性を表現論の軸としてすえた場合、それはまぎれもなく価値のアナキズムではないのか。
このような問いかけに本質的に答えていくことは、今の私にはまだ不可能に近い。だが、私は次のようにはいえるのだ。
<表現>そのものは私達の意識のなかで、私達の生存のために跳躍として、意識との関係の内に規定されるべきものであり、個人の内的な意識は、いまそれぞれの時間と空間、そして状況的諸関係のなかで、常に発達的に、しかも完結したものである。
(Ⅱ表現論/表現の現象学について<終>)