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墨岡通信

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2013年03月09日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-93-

流通機構論ノート

私は、現在表現行為の人間的根拠をささえる概念を<やさしさ>という言葉でとらえている。だから、私は以前に触れたロマン・ポルノについてさえも、それをあえて「鮮血にいろどられた暴力の提示」などとは考えていない。考えてみれば現在鮮血などどこにも流れようがないのだ。私達はいくつもの風俗を確実に突き抜けて、もっともっと苛酷な地点に追いやられているのだ。所詮風俗とは、もろもろの流通機構に所属するものなのだ。そして風俗にとって流通機構の存在がほとんどすべての内実なのだから。

例えば詩の流通機構のこと、それはすなわち個々人の詩人としての行き方の問題と不可分のものなのだけれども、まずもってこれを解体する必要があるのだと私は思う。解体しなければ問題は何一つ明らかにはならないだろう。

詩が、その成立とともに、ある不特定の読者の存在を意図的でないにしろ、対象として存在しなければならないということは詩にとっての本質的な悲しみであると私は思う。だが、それにもかかわらず詩が、その流通機構によって詩であるということは不幸なことであり、誤りであるだろう。

だから、いま≪詩とは何か≫と問うことを私は一切やめようと思う。私は、至るところの表現のなかに≪やさしさ≫の声を聞きだすだけにしたいのだ。詩は流通機構のものではない。詩は詩壇(!)のものではない。詩は編集者のものではない。詩は詩人のものではない。

おそらく、私は自分自身詩を書く人間としては失格であるだろうと思う。だが、と私は思う。私は敢えてひらきなおろうと思うのだ。それでは詩人とは一体何者なのだと。

私は常に、一人の人間の包囲としてある状況と、彼の内面的な所謂現象学的な言語の構造とから、その表現の≪やさしさ≫の由来を剖検していきたいのだ。私達が、永遠に求めている一つの共同社会を手に入れるためにはほとんど気が遠くなるほどの時間が必要であることは確かなのだが、にもかかわらず確実に言い得ることは、表現の流通機構にかわる新しい人間対人間の関係論を再構築しなければならないだろうと言うことである。
(Ⅱ表現論/流通機構論ノート つづく・・・)

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