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墨岡通信

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2013年04月28日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-95-

この詩の内に激しい断言として唄われている、かわいた≪やさしさ≫の由来は歴然としていると言えるだろう。

石原吉郎の場合、自己の表現が既成の流通機構を解体する潜在的意志を持ちながら、しかし現実には流通機構こそが石原吉郎という人間の存在をおびやかしている悲劇がある。石原吉郎の表現行為をめぐるこの内部の葛藤が、石原吉郎の自己を解体していく過程を、私は実に想定せずにはいられないのだ。石原吉郎の表現行為は、とりわけそのノートなどという意味では、出版されてはいけないのだ!!

私は、弱いものは永久に弱いものであって強いものにはなり得ないといった意味の、石原吉郎がかつて発した完璧な比喩のことを忘れないのである。現在の流通機構によって詩人の表現行為は決して贖罪されはしないのだ。

流通機構によって拡散されるのは、詩の風景だけである。風景が巨大になればなるほど個々の人間の内部の状況は欠落していくことは明らかである。そしていま、流通機構は巨大な詩人の管理場と化しつつある。そしてそれは表現にとっての墓場である。

ルネ・シャールは語った。
「宙に浮いた、まるで雪に蔽われたような、いくつかの死などは持たぬこと。たった一つの死しか持たぬことだ、よき砂に埋まる死を。そしてよみがえりのない。」

詩を現在の流通機構から解放するために、詩人が背負わなければならないであろう原罪の重量など実は微々たるものである。解体を目指して運動をおし進めていくとき、その主体の側ではついに勝利することが完結なのではないことを、幾度目かの苦い経験のうちから私達は知り得ている。おびただしく負け続けること、みじめにたたきつけられることこそが私達の強固な内実を完成させていくことだろう。私達は、かたくなになり、誠実になり、それに見合うだけ、人間の≪やさしさ≫に敏感になっていくだろう。

この流通機構のどこに、私達の見果てぬ夢があるのだろうか。
 「イマージュが原像に対して二次的であることをやめる世界、欺瞞が真実と称し、要するにもはやオリジナルはなくて、迂路と回帰の光輝のうちに、起源の不在がそこにおいて四散する永遠なかがめきがある。そんな世界」
(ブランショ『神々の笑い』)

だが、ここで一体この「論考」は誰のものか。そしてどこにいくのか。

(Ⅱ表現論/流通機構論ノート 終)

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