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2013年06月21日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-97-
だが、このとき三木卓がこのような詩を書きえた状況とは何なのか。
三木卓は述べている。「何故か、言葉に頼るようにして生きている」
だとすれば、言葉を“表現”の縦軸にいともやすやすと乗せてしまうのが三木卓の詩であるように思えてならない。
「晦冥とでもいったらいいような中に何時もいて、一行書きとめると、もうすこし見えるかもしれない、と思った」
この言葉の意味は、私にはよくわかる気がするのだ。しかし、私には三木卓が何故ことさらにイメージを浮きたたせ、イメージのみを拡散させていく詩法しか持ち得ないのかが理解できないでいる。それはすなわち、三木卓の詩が理解できないというのにも通じることかもしれない。
三木卓は、自分で述べているような「弱い人間」ではないはずである。「弱い人間」という言葉は、概念的に人間を把握する言葉ではない。もしそのような概念があるとすればそれは生き方そのものに由来するものなのである。個人の壮絶な生き方自身の中にあるべきものである。
私は三木卓の詩集を読みながら、表現の根拠として、私が考えつつある、遠い予感のことを同時に考えているのだ。
それは、三木卓が童話とか、小説とかに言語表現の可能性のいくつかを見出すという方位とはまったく異った地平でしか、私が言葉というものをとらえられないということにもよるだろう。
(Ⅱ表現論/言葉・言葉・根拠 つづく・・・)