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2013年07月14日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-98-
長田弘も触れたように、三木卓の次の言葉について、私はどうしても固執せざるを得ないことは確かなのだ。
「この数年復活して来て消えた芸術の政治主義的傾向に対してぼくは批判的だったが、その底で感じていたことは、芸術の本質的部分をかたちづくるものとしての<芸>をかれらが理解しないし持とうとしない、ということに尽きる。」
いま、人間にとって言語表現とは何かということが、私の頭から離れないでいる。そして、同時に言語表現が私のものである表現論(=私的表現考)のなかで、どのような規範と位置を持つかという問いに連なっていくのだろうと思う。
人間にとって言語とは果して何なのかという問いかけを、言語学や哲学、あるいは心理学や生理学にまかせておいてよいのだろうか。かつての吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』ではないが、詩人が、言語そのものへと接近していく必要があるのだと私は思う。それは単に自己の詩に触れるという様相ではなくて、人間のものとして、第三者の表現としてあり得べき言語の存在に、もっともっと敏感になるべきだと思うのだ。
(Ⅱ表現論/言葉・言葉・根拠 終)