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墨岡通信

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2013年07月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-99-

表現へ!

 小説『心優しき叛逆者たち』に触れて、作者である井上光晴は次のように語っている。
 「叛逆とか革命の本質は、徹底して心優しきものだということですね。心の冷たい叛逆者は、本来ありえない。叛逆者に値しない。だから、“心優しき”という言葉をつけると二重になるんだけれども、本当の意味での叛逆的な叛逆者でなければならないことを強調したわけです。」
 「暗黒の時代といってもよいこのがんじがらめの世界にどう立ちむかっていくのか。心情もモラルも、理論も、すべてが悪しき者のためにに構築されている世界を、少しでも変えようとして生きるのは、とてもじゃないけど大変なことなんですね。それでも黙っているわけにはいかない。」
 暗黒の時代というこの時代の苦渋を、はっきりと認識するためには自らの加害的あり様を捨て去りながら、自分に忠実に生きることが必要だろうと思う。こうした位相を側面から支えるのは鋭い感性そのものである。
 詩人がまぎれなく感性を自己の存立の基盤としているなら、詩人にとってのこの時代は何なのか。

 例えば、現在の極端な現代詩の氾濫の内部にあって、真の意味における詩的表現の存在を見据えるということは困難なことである。
 詩的表現の流通機構は巨大なものとしてある。巨大であるということは無論、量の問題ではない。詩の流通などは、他の表現のメディアに比較すればとるにたらないほど微々たるものであることは明白である。相対的流通の立場からすれば、現代詩など実にささやかな一角を占めるにすぎない。しかし、この事実が逆に現代詩を流通の場で生きのびさせるために、固定化された詩人達を寡占するという論理を生み出しているのではないか。
 だからもはや、現代詩には真の意味性での冒険は生まれるべくもないのだ。冒険は一人の詩人の意識の内面で、また何よりも詩人の経歴の中で、限られた紙面と形式を利用していたずらに微分されていくだけである。
 詩人相互の、きわだった状況への視点など、どこにも見出すことは不可能である。
 この責任は、詩人が共通に負うべきものだろうと私は思う。
(Ⅱ表現論/表現へ! つづく・・・)

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