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墨岡通信

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2013年09月03日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-100

 今日、詩人は自己の在り方の由来を<詩人>ということを別にして問い直さなければならない。詩が本来的に、人間の感性の問題とわかち難く結びついているというのなら、だからこそ、流通の内での<詩人>とは縁のない涯で詩の根源を問い続けていくべきではないだろうか。
 おびただしい私の意識、何故詩を書くのかと問い続けていこうとする私の意識の背後には、常に詩になり得なかった幾多の人間の表現への声々があるはずなのだ。そして、その人間一人一人の表現への意志のどれを抽出してみても、いかにも救いのない状況だけが拡散していこうとしているのに、その事実を無視することは出来ないのである。
 だから、個人における創造の問題は、実は感性として状況にかかわりあうのではない。それは絶対に、人間の唄でなければならない。
  「われわれは何者にも追いつこうとは思わない。だがわれわれはたえず歩きつづけたい。夜となく昼となく、人間とともに、すべての人間とともに。」
 こう語ったのはあのフランク・ファノンだった。思想史の中におけるファノンの位置も、精神医学の中におけるファノンの位置もまだ明確に定まっている訳ではないが、(それはファノンの表現のすべてを消化不良のままかかえこんでいる私達の側の責任なのだが)その表現は斬新で豊かなものであった。私達のなまはんかの視点や、知識を踏み越えてしまう何ものかを包んでいたと言えるのだ。
 あの、いまではあまりにも有名になってしまったファノンの言葉。
  「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないならば、橋は建設されぬがよい。市民は従前どおり、泳ぐか渡し舟に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものあってはならない。社会の全景にデウス・エクス・マキーナによって押しつけられるものであってはならない。そうでなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。」
 新しい価値意識が絶対に必要なのだということを確認しなければならない。いつの日にか、遠い道程を越えて私達の時代がくることを確信しなければならない。そのためにこそ、私達は新しい価値意識を固持しながらひらきなおり、心優しくなり、負けるかも知れないものを闘いとろうとしているのだ。
 その時、詩とは何か。詩に何ができるか。
(Ⅱ表現論/表現へ! つづく・・・)

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