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墨岡通信

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2013年11月12日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-102

現実に、作品として知覚され、表象され得る表現は、客観的表現として提示されているものであって(それはまさに提供されているものであって)、私達の諸感覚はそれら客観的表現を受容し、私自身の自我、人格、そしてそれらと同等のものとして把え得るはずの状況的抑圧とによって幾重にも粉飾された感情(情動)の仮面をはぎとられながら、私的表現の中核にむかって逆進する。この心的プロセスの全体が、表現の在り方そのものであるといってよいのではないだろうか。

しかし、だからといって表現自体が既に、あらゆる意味で個人的体験にのみゆだねられていると考えるのは誤謬である。

私が何度も強調するように、個人的体験が深く深く状況的外在によって修飾されているという意味において、この表現の存在過程は、同時に個人的状況によって状況のプロセスの渦中に突出しているのである。換言すれば、状況の中に開かれたものとして表現の位相は定置されている。

だから、私が述べる表現論のなかでは、例えば表現されたものとしての作品の真の意味で価値とみなされるもの(すなわち、真・善・美、そして芸術性という叙情、レトリック等々)は作品そのものに固有のものとして内包されているものではあり得ない。このような価値は表現のプロセスから自律しているものではない。作品は単に表現のプロセスにむかって問題提起をするにすぎない。だから、次のように言うことができるのだ。

いかなる意味においても、多様な人間的解釈を提供し得る作品こそが、唯一の永遠の作品と言えるのである。
(Ⅱ表現論/表現へ! つづく・・・)

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