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2014年01月23日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-104
Ⅲ映画論
私が映画に直接かかわっていた頃の論考であり、今では既に過去のものとなってしまった作業である。しかし、私は現在でも映画表現の可能性に私自身の夢をかけてみたい衝動にかられることがある。その意味でも、どうしてもこの本の中に収録しておきたかった。
時期を同じくして、同一の主題のもとに書きつらねたものなので、論理の重複もある。
「映画『旅の重さ』をめぐって」、「日活ロマンポルノの周辺」は、これも雑誌『詩学』に「私的表現考」の一部として連載したものである。
映画・表現・詩
映像表現を≪批評≫することによって、その表現の核に到達しようとするとき、私に与えられている方法論=認識論とは一体何なのだろうか。私が最も深く関心を持たざるを得ないのは、その表現の主体である人間の生き方であり、その人間が表現を提示しようとしている状況の構造である。
だが、その時私の映像表現を≪見る≫行為とは一体何なのだろうか。無論、私は既におぞましい状況の嵐の中に存在している。そして言うまでもなくその時点で、私は表現を夢みた人間達のあえぐような逼迫感をさぐりあてようとしている。だが、だからこそ私の≪見る≫行為の基盤とは何なのか。
既に今日、映画は≪批評≫としては成り立ち得ない場所にある。象徴論としての映画批評も、運動論としての映画批評も、技術論としてのそれも、もはや役に立たぬ遺物でしかないのだろう。
映画は、表現の一形態としても、観客の側にとっても無限の拡散現象をみせはじめている。意識の内部、知覚の内部に志向し未知なる経験の嵐をまきおこそうとしている。だからこそ映画は≪批評≫として成り立ち得ないのだ。しかし、そのとき私にとって映画を≪見る≫こととは何なのか。
(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 つづく…)