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2014年02月20日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-105
「叛軍」製作集団による映画「叛軍」のラストシーンは強烈である。
壁の前に若い男が立つ。
「男Aに扮することをやめる。男Bに扮することをやめる。そしてなにものにも扮することをやめる。それで“私自身”と呼ばれるものがあとに残ったわけではない。さらに私は扮し続けてゆく。なにものにも扮することをやめ、なお私は扮し続ける。扮し続ける私を“私自身”と呼ぶことはできない。そして私は、“私自身”に扮している私、ですらない。私のうしろにも、“私自身”と呼ばれる私はいない。私のうしろで私はなにものでもない。ただ私がいる。扮している私がいる……。」
現在、映画における方法論について述べることはつまらない。方法論はすなわち表現論の中に暖く包みこまれてしまわれているのがいい。私達は例えば映画の中に何を見るか。俳優の演技の上手下手はどうでもよい。作品の評価などどうでもよい。単なる映画技術などもまたどうでもよい。
映画を作り出すという共同作業のなかで、作り出す側の交錯した意識が、どれだけ表現への意志となって突出していくかということを私は問題としたいのだ。
作品の解釈が幾重にも可能である映画こそ本質的な映画表現である、というときそれは映画を作り出す主体が中途半端なイメージをこねまわしているということではない。むしろ逆であって、それは表現の主体が強烈な自己主張を持っていることの当然の結果である。そこには、はじめから観客は観客として存在しない。同時に観客もまた表現の主体になり得るという遠い予感に安住している訳ではなく、観客もまた映画の作り出した状況によって、映画を造りあげていくものだという透明な認識がそこにはある。
(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 つづく…)