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2014年03月13日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-106

「視覚は思考の一様態とか自己への現前ではない。それは、私が私自身から不在となり、存在の烈開――私が私自身に閉じこもるのは、その極限においてでしかないのだ――に内側から立ち会うために贈られた手段なのである。」(メルロ・ポンティ『眼と精神』)と述べたのはメルロ・ポンティだった。

例えば私は今、かつての日活ロマン・ポルノの一連の作品を想いうかべている。そこには藤田敏八があり、神代辰巳があり、村川透があり、田中登があり、それは同時に映画表現の現代における可能性の豊かな脈絡があった。

日活ロマン・ポルノを作品論としてとらえることはあまり意味がない。これらの作品は、映画表現の激しいダイナミックスのなかから生まれてきたものである以上、私達もまたその泥くさい葛藤の中へドップリとのめり込んでいかなければならないのだ。

ところで、見田宗介は「まなざしの地獄」の中で論に触れて次のように述べていた。

「N・Nは異常なまでの映画好きであった。彼が幼時をすごした家の向いにたまたま映画館があったということもあろうが、それよりも映画というものが、ベニヤ板の穴がそうであったように、魂を存在から遊離させるものであったからではないだろうか。」

「覗くこと。夢見ること。魂を遊離させること。それはなるほど、出口のない現実からの『逃避』であるかもしれないけれども、同時にそれは、少なくとも自己を一つの欠如として意識させるもの、現実を一つの欠如として開示するものである。」

映画について触れられた言葉としてこれは非常に示唆に富んでいる。だが、ロマン・ポルノの作品のいくつかは純粋に映画に関するこうした概念化を突き破ってしまっていると言わねばならない。例えば藤田敏八の「八月はエロスの匂い」ではデパートのレジを襲ったやぶ睨みの少年は、おそらくは多くのの内の一人であるだろうけれども、彼は現にこの映画の中でみごとな自己表出を可能にしているのである。の持つ欠如そのものを、これほど映画表現の作業者達に共同のものとして把握した形式がいままでにあり得ただろうか。

永山則夫を描いた新藤兼人の「裸の十七才」のリアリズムなどではとうてい及びつかない内的体験の表象を可能としているものは一体何なのだろうか。
(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 つづく…)

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