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2014年04月25日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-107
所謂ネオ・リアリズム以後の映画作品は、映画作品のもつ象徴化の過程と真向うから対立する形でリアリズムそのものを表現の強力な武器としてきた。だがもともとリアリズムというのは映画を≪見る≫側にとっては単に認識作用を軸とした表象化現象にその根拠を置いている訳で、考えてみれば私達は一つの映画表現の息吹きに直接触れるためにはいかにも疎遠な道をたどらなければならなかった。
だが、ロマン・ポルノなどの一連の作品はまさに映像のダイナミックスそのものであって、表現への意志というものが一種の心的緊張状態として映画の核をささえているのである。いうなれば一カット一カットをつなぎとめる強固な論理性も感覚もそれほど重要な契機である訳ではなく、カット割りの裏側にあるものは心的機制による状況作りである。
ロマン・ポルノに対する権力の取締りなどというものは、従って問題にならないほど表在レベルでのことであって、表現としての映画について本質的には何の関わりもない。
「意識に属する(知覚の)内容と(知覚の)対象との区別から、意識についての一般的本質洞察が得られる。」とビンスワンガーは語ったが、私がいま組みたてようとしている現代日本映画の存在論みたいなものについて触れようとするとき、かならず思いだすのはビンスワンガーの次の言葉である。
「われわれの知覚するのは感覚ではなくて対象である。しかし知覚された対象は知覚の中に含まれるのではなくて、われわれは知覚することにおいて対象へと方向づけられ『知覚という様態において』自己を対象に関係づけるのである。」(『現象学的人間学』)
(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 つづく…)