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2014年05月11日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-108
だが私は表現の問題、知覚の問題を単に映画についてのみ語ろうという訳ではない。いままで述べてきたところでも明らかなように私が問題にしたいのは、表現一般のことであって、換言すればそれは人間における自己表出の問題なのである。
このことは、私が映画についてよりも、より苦しいところでかかわりあっている≪詩≫についても言えることなのである。
ロマン・ポルノの中でも最近の神代辰巳の作品などでは特に、映像が単に知覚としてはじまるのではなくて、より奔放に細分割された映像によってじかに人間の存在に触れるというところにまで至りはじめているのだ。元来知覚の作用範囲でとりあげられてきた映画と、純粋に存在的表象としてあるところの≪詩≫とが、表現への意志というものを契機として深く深く結びついていく過程を考えることは興味深い。
だが、映画にとっての永遠の夢が≪人間≫を描くことだとすれば、詩にとっての永遠の夢もまさに≪人間≫を描くことなのだからこの内的な共通性は当然なのだ。ただ私が思うのは、≪映画≫とか≪詩≫とかいう表現形態のいかんにかかわらず人間の表現全体にかかわる壮大な存在論が要求されているのではないかということである。そして、それは一方では現代日本の社会的状況と密接にかかわりあいながら、もう一方の端では人間の意識の根本的な現象の再点検という作業を必要とするだろうという気がする。
≪詩≫について私が常に語り続ける苦しい状況というものは、無論≪映画≫にとっても存在するものである。しかし、それは単にロマン・ポルノの取締りがどうのということでは決してない。私達がいつか対峙しなければならない相手というのは、この国の至るところで既に内在化されているものである以上、私達が新しい表現論を手にし、表現の流通過程を手にするのは、はるかな遠い朝である。
(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 終わり)