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2014年07月28日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-111

藤田敏八が「梶芽衣子新宿アウトロウショー」をどのようにつくりあげようがあげまいが、実は「新宿によみがえるフィナーレ」などあろうはずはないのだ。かつての幻想を砕き散らすことから明日が始まるというのなら話は簡単である。だが、この夜の霧ははるかにおぞましい。

藤田敏八はそのことは知っていたはずである。彼の映画の軸となっている容赦のない実在意識と、その表象化は、この決意の裏付けがなければ存在し得ないだろう。

「赤い鳥逃げた」は「何を考えているのかわからない。ひっそり黒メガネの底から世の中をみつめているような二十八才の青年坂東宏(原田芳雄)が、大金を持ち出して蒸発したブルジョア娘との共同生活の中で、反逆と無頼のうちに過ぎ去った青春への郷愁を断ち切ろうとしても、彼はすでにかつての状況も青春にも戻れず、自己の無防備な純粋性と自己表現の仮借なさに於いて、ついに現在からも裏切られていく」というテーマを持っていた。そして、最後に実に些細なことから警官隊においつめられ、徹底的に抵抗したのち無残に焼き殺されていくシーンは印象的である。その騒動をよろこんで見つめていく群集の描写こそ、この映画の持ち得る可能性のすべてであって、恐ろしい予感にあふれている映像である。

映像表現とは何か、とあらたまって考える訳ではない。だが今までに群集の視線が映像のほとんどのリアリティーを占めてしまう作品を誰が作り得ただろう。また、逆に私はこの群集の出現を演出した真の斥力について想いをはせてみる。

見田宗介は最近の論文「まなざしの地獄」の中で永山則夫論を展開しているのだが、(もっとも見田宗介が設定しているのは永山則夫ではなく≪N・N)という一人の不特定少年の姿である。)次のように書いた部分が印象的である。

(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 つづく…)

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