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墨岡通信

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2014年08月21日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-112

 「N・Nは異常なまでの映画好きであった。彼が幼時をすごした家の向いにたまたま映画館があったということもあろうが、それよりも映画というものが、ベニヤ板の穴がそうであったように、魂を存在から遊離させるものであったからではないだろうか。」

 「覗くこと。夢見ること。魂を遊離させること。それはなるほど、出口のない現実からの「逃避」であるかもしれないけれども、同時にそれは、少なくとも自己を一つの欠如として意識させるもの、現実を一つの欠如として開示するものである。
それはなるほど『支配の安全』弁であるかもしれないけれども、同時にそれは、みじめな現実を生きるわれわれの心の中に、おしとどめようもなくある否定のエネルギーを蓄積してしまう。」

「赤い鳥逃げた」の主人公、坂東宏は、永山則夫の所謂<覗く>あるいは<走る>という青春像とは別な世界に生きている。それは言わば、観念の中に生活するものであって観念の中にひしひしと押し寄せてくる支配の波に無性にいらだっているのだ。だからといって彼の生き方が唐突で普遍性がないとは言えない。命題の定立が逆だとは言えないところに「赤い鳥逃げた」の真理がある。

それは、映画を、ついには「支配の安全弁」に囲いあげてしまおうとする壮大な力に対して拮抗する者の真実でさえある。

私は七〇年以後の映画について触れたが、かつての前衛的方法論は、技術論をのぞけば現在の日本映画に於いて決定的に破産しているのであって、その意味からも「映画を!」という叫びは悲痛なものとならざるを得ないのだ。
(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 つづく…)

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