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2014年10月16日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-114
言うまでもなく、藤田敏八の映画は一つの風俗として流れてしまうだろうという不安は常につきまとっているのだが、彼の作業を既に資本の側に収奪されている風俗とみるか、みないかということは、一つには藤田敏八自身とはまったく関係のないところで、少なくとも私達が、どのくらい、状況に対するいらだたしさと無念さを抱いているかということにかかっているのではないだろうか。その時にこそ、既に私の中で映像は単なる一般論としての驚きを超えているといえるだろう。
最後に、私は実にわかりきった問題を藤田敏八自身に語らせてみたいと思っているということを記しておく。
「甘ったれるんじゃねえ……。てめえの牙はてめえで磨け」(若者の砦)
と語る藤田敏八に。
「N・Nが現実に穴をうかがったのは、N・Nとおなじく体制の弱者であり犠牲者である。年若いガードマンと運転手たちと、七〇歳に近い神社の夜警員との、四つの生きている頭骸骨にすぎなかった。
N・Nの弾道がまさにその至近距離の対象に命中した瞬間、N・Nの弾道はじつは永久にその対象を外れてしまった。ここに体制の恐るべき陥穽はあった。」(「まなざしの地獄」)
という三田宗介の言葉に代表される内実を!
(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 終わり)