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2014年11月10日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-115
映画「旅の重さ」をめぐって
私はいま人間の表現と、表現行為についていくつかの角度から考えはじめている。それは<人間>というものをまともに、全存在的に含み込んだ壮大な見果てぬ夢だろうという予感がある。
ところで、私が表現の背後にどうしようもなく息づいているものとしてある<世代>というものについて語るとき、私は決して<世代論>について述べているのではない。時間軸によって区別されるべき世代というものを措定し、状況とのかかわりあい方を論じることはいうまでもなく不毛である。私の中で<世代>とは一つの踏絵であり<時代>に対する反意であり、どこまでも主体的なものである。
現在では私達を今なお包囲している状況の壁の前に、日常生活のみならず大学=学問も、個人の精神構造もみごとに退廃していく過程があり、その背後にきまって顔をのぞかせている鬼面は管理社会の演出者達である。
ところで、私はいま、新しい地平からの映画論ということを考えている訳だが、例えば、昨年の斉藤耕一の作品である「旅の重さ」はこのような世代の被表現性についてはっきりと主張した映画であった。
「旅の重さ」は一人の少女(高橋洋子)が生きていくことの重さ、生きつづけていくことの重さを求めて旅行をする。ただそれだけの映画であった。しかしそこには映画として豊かな問いの設定と、それを裏付ける確かな演出が存在していた。
斉藤耕一は単に映像派とか、青春映画とかいうレッテルで割り切れぬほど鋭い感性をもっていて、それ故に映画の奥底にうずくものは彼の鋭い感性と、それをささえ切れずにいる現在の日本映画界の桎梏なのだ。私にはそれが、斉藤耕一の映画を、映画として成功させているもののように思われるのだ。
(Ⅲ映画論/映画「旅の重さ」をめぐって つづく…)