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2015年03月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-119
そこでは、映像表現の主体となるべき共同体が存在し、その共同体を構成するはずの個別体験によって提示され、あるいは引き裂かれた葛藤が強烈な表現への意志を背景にしてある未完成な映像的状況を作りあげていたのだ。まず確認しておかなければならないのは、もともとこのような映像表現はポルノなどとは無関係に、現在の映画というものをめぐる状況によって規定されていたということである。しかし、このような新しい表現の形が、真先にポルノとして突出してあるということも同時に興味深い事なのだ。例えば、神代辰巳の「濡れた欲情」や「濡れた唇」では、そのダイナミクスは本来ポルノなどという言葉とは無関係な緊張状態と切実さを含んでいた。
もともと日本映画はここ数年間実に非生産的な場所へと、苦々しくも追いやられてきていたのだった。
かつてのロマン・ポルノでさえも、一つの運動としてそれをとらえることは不可能であるし、表言論としてもいまだ荒削りな実験である。それにもかかわらず、神代辰巳や藤田敏八や村田透等の息吹きが新鮮であるかのように見えるのは、彼等には映画を作ることがすなわち一つの状況を作り出すことだという確信があるからであろうと私は思う。
だが、現在このロマン・ポルノは現実に、表現の問題として論じられるよりも以前に、取締りを強化され、被告として裁かれているのだ。このことについて触れる前に私には一つだけはっきりとしておきたいことがある。それはロマン・ポルノが権力によって被告の場にあるということを私は表現行為論ということから問題としたいのであって、映画をめぐる表現の問題として考えているのではない。何故なら、現在のロマン・ポルノにとって、ポルノであるということは絶対的な必要条件ではないと私は考えているからである。映画におけるこの新しい波は今後、あらゆる形態の中に内在化される豊かな可能性を持っているのだ。
(Ⅲ映画論/日活ロマン・ポルノの周辺 つづく…)