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2015年04月25日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-120
ところで、表現行為論からすれば、あらゆる表現行為は、その表現主体における社会的背景とは無関係ではあり得ない。
と、すれば、実に裁判の席上で裁かれなければならないものは一体何なのであろう。それは単に一カット一カットにおけるワイセツな描写などという個々の<行為>では絶対に無いはずである。
不思議に私は思い出す。一九七〇年を前にして、あらゆる新しい闘争の場で問われていたのは、実はこの問題だったのだ。何故に、東大闘争裁判その他において分離公判が反対されてきたかということの意味も、ここに存在するのだ。<行為>そのものを裁くということは相手が人間である以上、それはその社会的背景を裁くということ以外の何ものでもないのである。例えばそこで、分離公判の法的論理根拠である刑法学者の言うところの「構成要件」というのは単に、暴力行為とか不法行為とかの有無を条件にしているのではないことを、私達はもう一度確認しておかなければならない。
だが、ここに問題はもう一つある。それは、個人の表現行為は本来自由であるべきであって、それを裁くことは出来ないという大原則である。
同じく重要な憲法上の公理であった思想の自由は、その思想の自由そのものを裁くものとして登場した戦前の治安維持法、国防保安法、戦後における破防法、国家公務員法、地方公務員法などの法律によって厳しく否定されてきた。例えばそれは、厳密に思想の問題であった煽動というものに対しても、大きな罰則をつけ加えて、ブレーキの役目をはたさせる法律でもあったのである。ある一定の、非客観的で些細な、つまりあらゆる意味で科学的でもなく人間的でもない一定の条件の下で、憲法上の誇るべき大原則が突然に犯罪にと変化するという驚くべき逆説を、国家はいとも簡単に既成事実としてしまったのである。
いま、この二の舞いが表現行為というものを軸として確実に行われようとしているのである。
≪犯罪≫というものに対する徹底的なシンパシーが藤田敏八や神代辰巳等の映画の必要な構造となっているのも、表現のダイナミクスにとって、また現在における個々人の個別的体験にとって、このような社会規範がいかに権力的で曖昧なものであるかということを示しているのだ。
(Ⅲ映画論/日活ロマン・ポルノの周辺 つづく…)