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2015年07月06日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-121
ミシエル・フーコーは彼の著作『狂気の歴史』に触れて次のように書いたことがある。
「『狂気の歴史』やその他のところで示そうと試みたのは言語表現の形式や概念や制度や慣行などを相互に結びつけている組織性というものは、(忘れられ、被いかくされ、それ自体から外らされた)根本的なある思想だとかフロイト的なある無意識などの領域に属するものではなく、それなりの特殊な形式と規制をそなえた、知識の無意識というものが存在するということなのである。
つまりわたしは、知識の領域において生じうるが、いわゆる“進歩”の一般的な法則にも、ある始まりの反復というものにも還元することのできないそうしたもろもろの出来事というものを研究し分析しようと努めたのである」「(『デリダへの回答』)
ミシエル・フーコーが「知識の無意識」と述べたものは、いわば≪狂気の復権≫を裏側から位置づける遠い予感であり、人間の文化状況のなかに見すえられた厳しいダイナミクスそのものだったのだ。
だから私は、現在の映画表現について触れる時「いわゆる“進歩”の一般的な法則にも、ある始まりの反復というものにも還元することのできないそうしたもろもろの出来事」を対象とせずにはおれないのだ。その背後には映画という素晴らしい表現手段が、単に個人における知覚現象、表象現象といった狭い領域で象徴主義的に、あるいは運動論的に批評されることへの反発があると言ってよいだろう。
その意味でロマン・ポルノはいま始まったばかりなのである。
(Ⅲ映画論/日活ロマン・ポルノの周辺 つづく…)