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2015年08月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-122

藤田敏八ばかりを例にとる訳ではないが、彼の「八月の濡れた砂」、「八月はエロスの匂い」、「エロスの誘惑」、「赤い鳥逃げた」というロマン・ポルノ以外の作品をも含めてながめてみると、やはり「八月の濡れた砂」が佳作であることは、はっきりしている。映像の持つ表象像からすれば、「八月の濡れた砂」の中の少女テレサは忘れがたい存在であった。だが、私がどうしても気になるのは「八月はエロスの匂い」の中のやぶ睨みの少年のことである。彼はデパートのレジを襲い、金を奪って逃げた、暗い影を持った少年である。社会からドロップアウトした彼の仲間の中でもシラミと呼ばれさげすまされている少年である。彼の抑圧そのものが、「八月はエロスの匂い」のテーマであった。映画の主人公は、この少年に掌を刺されながらも、少年の存在自体が気になり出していくデパートガールなのだが、いつからか、映画はすべてが少年の抑圧の構造を解析することになってしまう。

私達は、かつてのおびただしい闘いの中で数多くの犠牲者を出してきた。だからこそ、私達自身が犠牲者だというような語りには顔をそむけたくなるのだ。だが藤田敏八を含めてロマン・ポルノに描かれる青春像には不思議なやさしさが満ちている。そのやさしさの由来こそが、映画表現のダイナミクスの中核であるように私には思える。

ロマン・ポルノは大上段にかまえて状況を描き出す訳ではない。感動的な物語が展開する訳ではない。一時間一五分、制作費八百万円のカラーワイド映画は、いかにも貧弱でさえある。

 だが、そこに映画表現にとってまったく新しい渦潮が存在していたこと、それは事実なのである。

 「報復は最終的には一行の詩を書かせることではないかと或るとき、ふっと思ったのです。相手をなぐることでもなければ、殺すことでもない。或る情況に原罪性をもってかかわっている全ての人達が一行の詩をかかざるを得ないような現実的条件を作り出す、それが本当の報復になるであろうと思います。」(松下昇『私の自主講座運動』)
(Ⅲ映画論/日活ロマン・ポルノの周辺 終わり)

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