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2015年10月01日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-124

いま、加藤泰の「人生劇場」は実に完成した様式美を駆使して存在している。吉良常も飛車角も瓢吉も、宮川もみんな一段と若返りさわやかな青春ドラマとなっている。だが、私はこの「人生劇場」に限らず最近の加藤泰の仕事に強い不満を持っている。加藤泰は映画作家としては非常にすぐれた存在になりつつある訳だが、それに見合うだけ、映画表現を空虚なものにしつつあると言ってよい。本来、加藤泰の映画の持っていた破壊的な力動を失いつつある。加藤泰は言うまでもなく、六〇年以後の映画表現をその職人的な耽美主義によって、また同時に状況のアレゴリーを実に巧みに映像へと転換することによって追求してきた作家の一人である。「三代目襲名」や「男の顔は履歴書」、「懲役十八年」等は状況を実に見事に先取りした、権力への不服従の世界であった。だが、加藤泰の危険性は実は、その初期段階から既に内在していたことも事実であって、かつて私は加藤泰の「真田風雲録」について次のように書いたことがある。「アナロジーは果てしない悪循環の後に俗っぽいパロディとして終わる亜流の思想であり、虚偽であり、偽善であることを告発しなければならない。例えば加藤泰が『真田風雲録』で見せたパロディの無残さは六〇年の死者が、私達を常に弾劾し続ける沈黙の意味にはるかに及ばないばかりでなく、それは状況に対して独力で苦しい闘いを賭している者に対する不逞な挑発であった。」しかし、この「人生劇場」をとりかこんだ空虚は、加藤泰自身の息苦しさの肉声とでも言うべきであって、表現を流通機構の側に委ねてしまわざるを得ない誠実な作家の帰結でもある。「映画監督である以上、『人生劇場』は一度は撮りたいと思っていました。」と語る加藤泰に対しても、この二億八千万円をかけたという大作は場違いなのだ。他の主人公の誰よりも、お袖、おとよの二人が実にたくましく、なまなましく描かれているのも偶然ではない。
(Ⅲ映画論/「人生劇場」そして「夏の妹」へ つづく…)

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