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2015年11月01日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-126

しかし、このような悪循環をどのように生存の時間帯の中で割付していくのか、さらには現実の闘いの場をどのように展開していくのかについては、「儀式」では触れられていない。最近作「夏の妹」はこの重い問いかけをひきつぎ、作品の核として成立している。沖縄を描いてあまりにも図式的で皮相的でありながら、また映画構成そのものも常套的で感傷的でもあるこの作品が逆に豊かな示唆を与えてくれる理由もそこにある。

やはりここでも、大島渚の六〇年以後に再生した精神は徐々に衰退していくように見える。だからこそこの映画は、“困難な”状況を宿命として育った若い世代に、新しい伝達の開拓をまじめに託そうとする、表現のありかたの提供である。事実、沖縄を如何に描くかということよりも、何故沖縄を描くかということの方が、はるかに息苦しいことであるような場所に私達はたっている。私は至るところで語りたいのだが、闘いをする、運動をするということは何者に対しても免罪符にはなり得ない。むしろ、現在あらゆる処で必要とされているのは、何故という誠実にささえられた深い問いの力であり、人間への限りないやさしさである。

「夏の妹」には自己破壊への欲求と、自己再生への力とが綾織りにされていて、それが従来までの“父なき家”のための“父探し”の構図をはるかに深く越えている。そしてやはり新しい構図の底にあるものは大地から突き出る新鮮なやさしさである。

大島渚の映画ほど、観る側の立場と、生活と、人間への愛とを明確に浮き彫りにするものは他にない。だから私達は、そう簡単に大島渚の傍をとおり抜けることはできない。

「夏の妹」は語る。

「妹と呼びたい。そして、できればぼくが生れ育った沖縄で君に優しくしてあげたい。」

(Ⅲ映画論/「人生劇場」そして「夏の妹」へ 終わり)

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