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2015年11月14日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-127
Ⅳ 私的表現考
雑誌『詩学』に48年5月頃から連載をはじめたエッセイであり、私の内なる表現論を外側から支えている日々の行為のなかからの問題提起である。はじめに一般的な表現の問題から書き綴られたが、次第に私がどうしても最も強くかかわらざるを得なかった精神医療の問題に力点が移ってしまった。そのために、ここに収録する時点で『詩学』当時の形を整理してみた。私の気持ちを理解して、詩の雑誌にこのような場違いな論考を長期間に渡って連載することを評してくださった、『詩学』の嵯峨信之さんに深く感謝しています。
表現の現象学
ⅰ
私がこのささやかな論考を、とりとめもなく書き続け始めて、もう何ヶ月かがたつ。私はいつも同じ部屋で、いつも同じ机に向って書き続けてきた。
私の部屋の本箱にある一冊一冊の書物は、無論、私のここ数年間の軌跡であるはずである。そして、この書物の書かれざる空間の背後には、すぎ去って行く時の巨大な姿がある。私は、くる日もくる日も、まるで変化しない私の自我を通りすぎる時間に抱かれたまま、同じようにたちつくしているしかない。
だが、私がこの書くという行為をめぐってたどたどしく逡巡しているとき、私の自我が占拠し得る内部の時間を、そして空間を、まさに軽々と玩具化してしまう<悪霊の時代>があることを知らなければならない。
表現の現象学と私が書いたとき、それは一体何を意図しているのかということが問われるべきである。“現象”とは何か、“学”とは何か。
私は、表現論の現象学的叙述という意味で、表現の現象学と呼んでいる訳なのだが、ここでの現象学の私的意味について触れるべきだろう。
現象学は、すなわち一個の思考、表現論の範疇のなかで、<学>そのものとわかちがたく結びついてきた。それは、常に背後に待機した巨大な体系を予感させるものであったにちがいない。この予感のうえにこそ、「事象そのものへ」(Zn dem Sachen Selbst)という命題は現象学の中核でいかにも多様な人間的解釈を可能にしてきたものだともいえるのである。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)