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墨岡通信

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2016年04月09日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-133

人間の意識の内部について触れるとき、果して我々は本当に学問的体系を必要としているのだろうか。既存の精神病理学、精神分析学、精神現象学等々を採用することによって、私達は人間的事象の何を知ろうとしているのだろうか。

氾濫するフロイト、流通の中に満ちあふれんばかりの異常心理学。そして、そのまさに対極には絶対的ともいえる権力関係につら抜かれた学問的精神医学の構造が常にそびえていた。

その狭間にあって、真に内部的存在の問題を状況の内に投射し得た孤独な人間は一体どこに流されていこうとするのだろうか。

既に<フロイト>も、<エリクソン>も、<レイン>も、流通の場では権力でしかないのである。

畏友、渡辺良は「髪の花」に触れながら次のように述べている。

「<精神医学>がまきちらしてきた<治療>の幻想の中で、狂気を個人に還元していく視点は誤りであり、<病者>を<正常>な社会に適応させていくことは治療的暴力である。だがその<適応>でさえも、あるいはその<適応>こそ、一日千秋の想いで、待ちわびている<患者>がどれだけいるのかを考える時、僕の想いはどこまでも屈折する。彼らの視点と僕らの視点が異なる様に、彼らの苦しみと僕らの苦しみを混同することはできない。僕らの様々な思弁的な目論見のはるかに及ばぬ深部で、病者の苦しみは“ただ単純に生きること”への謙虚さに貫かれて、それ故呻き、軋んでいるのではないだろうか」(『髪の花と我々』さいか、あとり―1月号)

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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