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墨岡通信

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2016年06月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-137

私達はもう一度、個々人の<人間>にもどらなければならない。そこからやりはじめなければならない。詩が単に、とぎすまされた感性の所産にとどまらず、美しい虚像であることとは対極の困難に生きることのための状況との緊張関係として存在する日のことを私は想わないではいられない。だが、その時私達はただいたずらに人間の内部意識について語ってはならないはずなのだ。“狂気”そのものがこんなにも簡単に文字として定着していってしまう時代を作り出したのは一体誰なのか。自分自身の意識のなかでおこなわれていることにあまりに無関心でありながら、客観的な狂気の連想へと自己の存在的歪みを何のためらいもなく重ねてしまう総ての人間には、もはや病者の持つ根源的な正直さもないのである。

「今日われわれはヨーロッパの停滞に立会っている。逃れよう、同志たちよ、この停止してしまった動きを――そこでは弁証法が少しずつ、均衡の論理に変貌した――。人間の問題を再びとりあげよう。脳髄の現実の問題、全人類の脳髄全体の問題を、再びとりあげよう――その結合を増し、その網の目を多様にし、その伝える言葉を再び人間化することが必要だ。

さあ、同胞よ、われわれは、後衛のゲームでたわむれているわけにはゆかない。あまりに多くの仕事がありすぎるからだ。ヨーロッパは、ヨーロッパのなすべきことを行った。それも結局のところ、なかなかよくやってのけた。ヨーロッパを告発することはもうやめにしよう。そしてヨーロッパにはっきりと、いつまでもそんなに騒ぎたてるべきではないことを告げようではないか」(フランツ・ファノン)

いまもなおファノンの表現が私達に感動的であるのは何故なのか。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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