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墨岡通信

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2017年08月10日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-149

その頃、私は自己の精神科医としての生き方、展望についてかなりせっぱつまったものとして考えざるを得ない日々が続いていた。従って、Fさんとの週一度の“精神療法”も私の側の責任で重苦しい雰囲気につつまれてきてしまった。

だから、という訳ではない。しかしFさんはよく笑い、よくしゃべるようになった。私が深刻な顔をしていると、「先生も死にたいと思いますか。どんな方法をとるんですか。失敗したらまた試みますか。」と笑いながら質問の真似をする。「死」は単なるアクセサリーにすぎないことを彼女はよく知っていた。顔つきも明るく、よく食べ、よく笑う。化粧をしはじめ、流行のファッションに敏感になる。彼女の持っていた、世界のすべてを皮肉るように語る言葉はもう彼女の口からは出ない。


5月から、私はその大学病院から出張という形で離れ、関連病院に勤務することがきまっていた。私とFさんは、対話のすえこの“精神療法”を4月いっぱいで打ち切ることを決めた。

彼女はもはや自分の自立した足で一歩をふみ出すことにためらわなかった。彼女をめぐる状況の渦と、私のそれとが完全に理解しえる状態が生み出された訳ではなかったけれど、彼女は、すくなくとも人間の、まさに人間である所以であるところの多様性と、価値の相対性と、人間らしいナイーブなやさしさとを身につけつつあった

考えてみれば、私達の状況への批判的提言と行為は、おそらくは私達自身の感性にとってはごく自然な、ナイーブな心情の発露であるのかも知れないのだ。友人、渡辺良のストイックなまでの強固な発言も、彼自身の正直な感性にささえられているものだった。


「すべてのひとが、どのようにしてたとえば悲哀とか不安などの感情が直接に経験されるのか、自分ひとりだけの力で知っている。同様に、どのようにして思想が生じ、おたがいに結びつけられるのか、あるいは、意志をもったなんらかの行為を生む心的事象(衝動、沈思、疑惑、動機の葛藤、決断など)がどのようにして心の事実としてあらわれるのか、知っている。」(Stern W.“General psychology from the peryonalistic standpoint)

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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