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2017年11月27日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-152
彼等は、現象学的な方法論を人間の存在様式について導入した後に、「開かれた存在」としての人間存在を、世界内存在――現存在――実存、という図式の中に規定してきた。
メダルト・ボスは語る。「デカルトが哲学的に世界を思惟するものと、延長するものとに分けて以来、西欧の精神科医も、この主観――客観――分裂を出発点としてきたのです。しかし、現存在分析の指示にしたがい、われわれが人間として世界にあるもともとのあり方に、とらわれない目を向ければ、その瞬間、この害悪は決定的に克服されたことになります。さしあたって、ハイデッカーの現存在分析論は、なにかこれ以外のことを志向しているのではありません。それは、ただわれわれに出会うものを、もう一度単純に、歪曲されないで見ることだけを教えようとしています。」
このように語られる現存在分析の方法論は、しかしかならずしも細部まで明晰なものではない。ビンスワンガー・ボス等の卓越した才能は、従って秀れた後継者を得ることはできなかったのである。無論、私は精神医学、表現論を科学と認めて普遍妥当性を云々しようとする訳ではない。だが、私達を押し流そうとする状況の流れが、恐ろしく圧倒的な力量を持ち得ているとき、現存在分析の方法論はあまりに微視的にすぎ、私達の(きわめて劣性な側にいるものにとっての)効果的な武器とはなり得ないのである。
それでは、世界は現在、この問題に対していかなる回答を他に持ち得ているだろうか。マルクス主義・唯物論としてはどうか。この点で、最近私の興味をひくのは、物象化論という形で露呈してきた議論の一内派ともいうべき「共同主観論」の行方である。「共同主観」という非常に逆説的な言辞はさまざまに使用され、さまざまな意味性のうちにあるがここでは簡単に広松渉の「世界の共同主観的存在構造」についてのみ触れておく。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)