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2018年01月18日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-153

広松渉は述べている。

 「われわれは、まだ、この「図式」(主観――客観という)に根強く捉えられており、今日、それに代えて認識を述定しうべき既成の概念装置を持合わせていない。現に、感覚や感情に至るまで本源的に社会的な形象であることはいちはやく指摘し、社会的諸関係の総体として、いわば具体的普遍としての人間が共同主観的に営む対象的活動、これに視坐をとって認識を論じた有名なテーゼの継承者たちですら――当の始祖は「主観――客観」という用語法を注意深く回避した形跡が認められるにもかかわらず――再びSubjekt-Objekt-Schemaに回帰してしまっている現実を思うにつけ、当の図式を超克することはいかにも困難である。」

 「だが……主観――客観図式がいまや桎梏となり、“逼塞情況”を現出しているとすれば、そしてこれを打開することなくしてはもはや一歩も前進できない事態に逢着しているとすれば、たとえ徒労に終わろうとも、それを止揚すべく模索の途につくことが、当為となる所以である」(同前)

 ことわっておくが、広松渉のいう“逼塞情況”というのは哲学の場での状況であり、私がかかわっている精神医学的、或は表現論のものとしてではない。だが、主観――客観の問題が哲学をも含めて、一つの壁につきあたっている状況は理解できるのではないか。広松渉が、この種の問題提起からはじめて展開する「共同主観論」は膨大なものであり簡単に要約することはできないが、それは主観を、個人的主観においてのみとらえる方法論の誤謬を指摘し、主観はもともと状況的、役割的、歴史的現象の総体として存在するものであることを立証し、この一点に於いて主観と客観は断絶なく延長するはずのものであったというのである。

 広松渉の作業は、分野は異なるがかつての吉本隆明の作業にも似たところがあり、その点でも興味がわくのだが、そのことは他の場所にゆずる。

 だが、私個人としては、「世界の共同主観的存在構造」はそれはあくまでも認識論のカテゴリーからの提出であること、また主観の問題を扱いながら、個別主観については検討を加え得る段階でないことなどから、まだまだ私達の有効な方法論としては完成されていないと言ってよい。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく…)

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