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墨岡通信

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2018年05月08日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-158

私は、ほとんど毎日同じ道のりを通って、現在私の勤務する精神病院に通う。

病院の門から庭に入って、私は大きく胸をはってすべての建造物と、人物を見つめたことは一度もなかったと考える。私はいつも、小さくうつむくように歩くのだ。

病院の敷地のなかには、「あの人たち」がいる。昼間だけ申し訳程度に鍵がはずされる老旧化した開放病棟、「あの人たち」が望んだことは一度もないはずの、賃金の支払われない不毛の労働を要求される作業病棟、そして誰が何と理由づけようが鉄格子としか表現のしようがない閉鎖病棟。

「あの人たち」は「あの人たち」なりの効率に従って作業をしている。効率こそ、正常な社会の神話だとしたら、ここにはやはり病者しかいない。だから無論、「あの人たち」が作業を欲した訳ではない。作業を提供するのは常に「私たち」なのだった。

いつ、いかなる時代にあっても、「あの人たち」と「私たち」とは人間の存在として最も遠い社会関係にあった。日常生活ではもちろん、生産においても、治安管理においても、幾重にも疎外され、精神衛生とか、社会福祉とかいう欺瞞的な名辞からは、もっとも完璧に疎外された人たちとして「あの人たち」はあった。この事実は、この疾患の原因如何とは何のかわりもなく、またその原因によっていささかも変りはしないのである。

人間存在の一〇〇人に一人という巨大な数の人間を、深く深く鉄格子の内部に隠し続けたまま、私達の生活が存続されていく。精神病院こそは社会的治安のすばらしい安全弁であったという事実は認めてよい。


(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

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