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2018年10月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-165
私自身は、現象学的・人間学的な運動について考え、行為し、述べようとしている訳であるが、現在もなお政治的運動としての医療の問題を曖昧にしか総括し得ないでいる。
だが、例えばF・Basagliaが結論づけた一つの反権力的な意志は、既に政治的なものではなく、鋭く人間の生き方の問題に触れるものだと言えるのである。私は、政治的運動の挫折として、あるいは政治的運動が無力であるときに<人間学>が存在するという考え方ではなくて、このような認識は、政治的運動の一つの成果であると考えたいのである。
かつて、D・クーパーは“The Death of the Family”(家族の死)という論文集のなかで私達の内的な(抑圧的な)家族の構造(“Internal Family”)の分析において、次のような見取り図を描いた。
すなわち、家族的機能の基本的な要素は、母子の不充分性をもとにした結びつきにあるのであって、そこでは常に、既に何重にも女性として抑圧を受け、不全感を持ち続けている母親という存在が子供の上にのしかかり、母親の不足を子供に結びつけようという無言の意志が働いている。だから、このような家族構造の内にあっては子供は決して母親以上に完全になることは出来ないのである。子供は、あたかも母親にとっての“Penis”として存在してきたのだから。このような内的な過程を通して、母子共生(Symbiosis)という異常な人間関係がうまれ、それが<精神分裂病>へと発展していくことを想定することができるという。そして、D・クーパーはこの過程から抜け出す方法は、たった一つしかないと述べる、それは、愛(Love)の自由な温かさなのであると。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)