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2018年11月13日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-166
私は、ここで先に述べたF.Basagliaのいう「愛では不充分である。」(“Love is not enough”)という認識との対比について述べているのである。
しかし、このように述べたD・クーパーは次第に彼の精神医学における実践を通して政治的関心の方向へとむかい、権力を持たない者の権力・対組織(Counter-organization)の形成などに没頭していったことも周知の事実である。今回のシンポジウムの席上でも彼は、反精神医学の国際ネット・ワーク(Reseau International)への参加を叫んでいた訳であるが、私はしかし、現在の時点でなおかつ、「分裂病的な端緒場面の意味を理解するのに必要なのは、何か新しい種類の方法ではなく、新しいこころなのです。」と語るD・クーパーの言葉の持つ意味について思いをめぐらすのである。
ここには、単純な運動論を突き抜けた新しい生き方の模索が暗示されているように思われるのだ。私達にとって、理論と現実との齟齬が既に古典的な前提であるとき、ただ単に現状分析や認識論をふりかざして、「概念や理論とアクチュアルな状況との乖離」という現象を裁断してみてもそれほど意味がある訳ではない。無論、権力構造の問題への鋭い認識を措定しておくことは不可欠だとしても、この現象を、内的な場面での変様にまでつきつめて考えなければ、<分裂病>をめぐる私達自身の関係、想像力や日常性の問題へとその構造を行きつかせることはできはしないのである。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)