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2021年01月04日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-180
例えば、私はいま一人の人間としてR・D・レインのことを考えている。
正確にいえば、一九六九年に“The politics of The Family and Their Eyes”を出版してから、一九七〇年に“Knots”と題する詩集を書きあげるに至る、レインの内的あるいは状況的な経緯が私を強くひきつけてはなさない。
R・D・レインはいうまでもなく、D・G・クーパー等とともに反精神医学の旗手であった訳だが、現在まで、きわめて一面的な解説しか日本では一般化されていない。雑誌『現代思想』の“マルク-ゼ・ラカン・レイン特集号”でもレインの視点は完全に逆転されてしまっている。
反精神医学運動の支柱として『ひき裂かれた自己』、『狂気と家族』等の著作からはじまったレインの仮説は、日本の精神医学界をも確実にゆるがせたのだが、レインの生き方のまさに開かれたあり方として、まだその豊かな成果は、まさに「死んだ馬」ではあり得ないでいる。
『ひき裂かれた自己』はいまだ旧来の意味での精神現象学の範疇を越えず、レインそのものの感性に支えられた解釈学の試みにすぎなかったのだが、“The politics of experience and The bird of paradice”以後、レインの思考は私たちにおびただしい埋もれていく側の声の発掘を、とかりたてる心的な力学をよび覚したはずである。
レインが、「状況のなかの現象学的精神医学」と語るとき、その「状況」というのは単に精神医学という学問のなかの「状況」ではないように、「現象学」というものも、学問のなかの「現象学」ではあり得ない。後に、「政治学」という表題が多用されるように、それは人間の内部意識における権力関係の鳥瞰図であった。
内側から外側への
死から生への
後から前への
不死性から死の可能性への
自己から新しい自我への
宇宙的胎児状態から実在的再生への航海
と書き連ねたレインの息苦しいまでのやさしさが私をとらえてはなさない。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)