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2021年05月22日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-183
レインのいくつかの論考が、しだいに苦渋の色を深めながら、精神医学という狭い枠組を越えていく過程は必然的なものであったといってよい。いつからかレインは論理を展開し、仮説を提示することをやめてしまう。人間の内面に、内面にと下降あるいは上昇していったもののみが手にする<言語>そのものに突きあたっていくのだ。レインは既に指導者であることをやめる。理論家であることをやめる。思想家であることをやめる。
レインの<言語>はただ<表現>としかいいようのないものへと連なっていく。そしてその過程で生まれたのが、“Knots”という詩集である。(詩集といってよいか、むしろ表現集である。)
われわれは子どもにわれわれを愛するよう、われわれを尊敬し、われわれに従うよう教える義務がある。
もし子どもがそうしなかったら、罰しなければならない。罰しないなら、われわれの義務を怠っていることになる。
もし子どもがわれわれを愛し、尊敬し、われわれに従いつつ大きくなったとするなら、われわれは、子どもをよく育てたことで祝福されるであろう。
もし子どもがわれわれを愛さず、尊敬せず、われわれに従わないで大きくなったとしたら、われわれが子どもを適当に育てたか、または育てなかったかのいずれかである。
われわれが子どもを適当に育てたとすれば、子どものなかに何かわるいところがあるに違いない。
われわれが子どもを適当に育てなかったとすれば、われわれのうちに何かわるいところがあるに違いない。
例えばこの詩を、レインの家族関係論のなかでの二重拘束理論そのものの置換であると解釈することは正当でない。
ここには、現に生存する人間対人間の非権力の原始への愛の唄とでもいうべき、やさしい基調が波うっているのであって、レインによる世界への子守唄ともいうべきものである。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)