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2021年08月03日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-186
私たちには、いかなる道があるのか、ということがここ数年、日本の精神医学界をおおう重く沈んだ空気の由来である。
精神医学を、単に精神病理学、精神現象学として把えることはむしろ簡単であろう。あらゆる<学問>が簡単であるように、それもまた簡単である。
精神医学を現在の状況の中で支えているものは、やはりまぎれもなく権力的なものとしてありつづけようとする学問のあり方そのものであり、そのことを根底から許している人間の存在構造の偏見であり、告発する側の圧倒的な無力さなのである。
私たちはまだ若い。だから私たちはたえざるひらきなおりのなかで、私たち自身のための<表現>の流通機構を確立したいのだ。そうでなければ、私達は永遠の“無頼”の中に身を沈めてしまわなければならなくなるだろう。“無頼”そのものは、それはそれで一つの完結した生き方だとしても、そのために、私自身の存在の、生き方に関する他者への<埋もれていく側への>加害的なありかたが、多くの真に抑圧されているものの声々を抹殺しているということを常に想起しなければならないのだ。
われわれが遂行する暴力、われわれがわれわれ自身に加える暴力、非難の応酬、和解、恍惚、愛の拷問は、現実の二人の個人がたがいに関係しているという、社会的に誘導された幻想にもとづいている。このような条件下では、幻覚と妄想、入り乱れた空想の氾濫、傷ついた心、一時しのぎのごまかし、復讐などの危険な状態こそが問題なのである。(レイン『経験の政治学』)
(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)