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2022年05月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-194

無論レインも、精神分析の流れをまともに受けることから出発した。しかし、レインは次第にクライン等への批判に傾き、自我心理学の構成そのものにも批判的になっていく、自我心理学の再検討、発達心理学批判、対象関係論の再検討、と精神分析の大きな支柱に次々と疑問をなげかけていくレインの作業は、クーパー等が述べるように「反精神医学」と呼ぶにふさわしい迫力に満ちていた。

「最も根源的に考えれば、人間はそこに存在しているものの発見にも生産にも、あるいはコミュニケーション、発明にさえも参与しておりません。人間は存在が非存在から湧出するのを可能にしているだけなのです。」(レイン『経験の政治学』)

レインが展開してみせる存在の論理学は、単に存在の問題だけを抽象してみるとき、ほとんど革命的なことは述べられていない。だが、レインはこのおそろしく公式的な命題を人間存在の中核的役割を持つ、意識の問題、自我の問題へと強引に直列してしまう。しかも、さらにこの激しい渦は人間の自我と状況との接点にまで及び、状況の論理さえも包み込んでしまおうとするのである。

「理論においても実践においても中心となるのは人間の間の関係です。人間は自分の経験と行動とを通してお互いに他者と関係づけられております。諸理論を、それが経験または行動にどれだけ重きをおいているかという点から、そしてまた、経験と行動との間の関係をどれだけ表現できるかという点から見ることができます。」(前同)

「社会科学研究の理論や記述において用いられる慣用的語句の多くは、一見したところ『客観的』中立性の立場にあるようにみえます。しかしこれがどれほど欺瞞的でありうるかは、私たちのすでに見たとおりです。構文を定め、語彙を選ぶことがすでに政治的行動であって、そのことによって、『事実』を体験するやり方が決定され限定されてしまうのです。」(前同)

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

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