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墨岡通信

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2024年08月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -4-

私と石原吉郎の詩との出会いも、無論この放射線上でのことであり、私が急速に石原吉郎の詩に没頭していったのも同じ理由によるものだろう。そしていま、石原吉郎の表現、『望郷と海』は私を深くとらえている。

「そのときまで私は、ただ比喩としか、風を知らなかった。例えば流動するもの。あてどないもの。だがこのとき、風は完璧に私を比喩とした。このとき風は実体であり、私はただ、風がなにごとかを語るための手段にすぎなかったのである。」(「望郷と海」)

と石原吉郎が書くとき、その表現の標的はきわめて正確であり、完璧であって私はそれ以上に語るべき言葉を持たない。ここには深く傷ついた肉体など微塵もなく、唯至るところに屹立する沈黙そのものとの瀬戸際で脆く平衡を保っているリビドーの核がしたたかに露呈しているのだ。そして、石原吉郎のこのような表現の根拠にはきまって愛がある。敵であれ味方であれ、人間である以上愛さずにはいられない根拠としての愛がある。

しかし、だからこそ私はこの背後に存在する巨大な影のことに触れなければならないと思うようになる。私は思うのだ、愛が挫折し果てる空間も確かに存在する。それは、石原吉郎自身が言うように、集団としての人間の中にも存在するだろう。だが「加害において人間になる」こととは別に既に体制とは不可分なところで存在している男を措定することもできるのではないか。その巨大な影、スターリンは書いている。まさに書いている。

「言語は、なにかある一階級によってつくられるのではなく、全社会によって、社会の全階級によって何百の世代の努力によってつくられたものである。言語は、なにかある一階級の要求を満足させるためにつくられたものではなく、社会全体の、社会のすべての階級の要求をみたすためにつくられたものである。まさにそれだから、言語は、社会にとって単一な、社会の全成員にとって共通な、全人民的言語としてつくられているのである」(「言語学におけるマルクス主義について」)

まさにスターリンはこう書いたのである。

(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書つづく・・・)

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