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墨岡通信

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2025年02月06日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -7-

私達が模索のうちに目指そうとしている遠い地平に石原吉郎はあまりに早く入りこんでしまった。否、そうではなく私達が遅すぎたのかも知れない。
「政治には非常に関心がありますけれど、それははっきりした反政治的な姿勢からです。人間が告発する場合には、政治の場でしか告発できないと考えるから、告発を拒否するわけです。それともう一つ、集団を信じないという立場があります。集団にはつねに告発があるが、単独な人間には告発はありえないと私は考えます。」(「沈黙するための言葉」)

石原吉郎は実に寡黙に語る。思考と感性の最後の砦としての文体が、それ以上否定することのできない本質的な存在の様式を刻んでいく。だから、「望郷」も「海」も、自己の認識のなかにあるのではない。それは認識するものではなく、独自に存在するものである。石原吉郎の言葉は認識から発せられた言葉ではない。それはまさに存在から発せられた言葉以外のなにものでもない。だから、人間の最も認識的な所産である国家も、権力も、ここには至ってこない。あらゆる不条理を問いの力によって否定しつくしながら、最後まで否定しきれない人間的属性を軸にして、その所以を屹立させる存在の言葉である。
「幻想の言葉である。私が陸に近づきえぬとき、陸が、私に近づかなければならないはずであった。それが棄民されたものへの責任である。このとき以来、私にとって、外部とはすべて移動するものであり、私はただ私へ固定されるだけのものとなった。」(「望郷と海」)

厳しい外部的・認識的条件が重量を増す度に、徐々に石原吉郎の表現の核が<存在=“内部意識”>と意識の陥没を逆上昇していく過程は、まさに衝撃的である。ラーゲリで石原吉郎にとってかけがえのないものであった鹿野武一が取調者に対して発する最後の言葉、「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」は、だから二重の意味で激しい力を持っている。一つはいうまでもなく認識の場、ラーゲリの非人間的日常の場で発せられた人間の言葉として。もう一つは、認識の論理ではとうてい推し測ることのできない深淵、すなわち内部意識のあらゆる被表現性について述べられた言葉として。だからこそ、私達は今もなお、この言葉をめぐって被告席に立たされているのだ。
(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書つづく・・・)

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