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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2019年01月15日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-168

この精神病院のなかに(それが閉鎖病棟であれ、開放病棟であれ、作業病棟であれ)、二十年以上、あるいは十数年間も入院させられ、そしてそれ故に退院の見とおしもたてられない精神障害者の存在は、私たちにとってきわめて重い意味を持っているのである。

私達は、病院の機能上だけでなく疾患(多くは精神分裂症と名付けられた)の症候論においても次のような視点を措定しなければならないことを感じている。

<分裂症>を発病してまもない人間に対する<治療>および<医療>の問題と、これら病院に沈殿し、退院することのできない人間に関する治療とは、まったく別のものとして把握されなければならない。そればかりでなく、このような<分裂症>を病んでいる二つの側面の人間の生き方、そして<分裂病>そのもののプロセスも、まったく別のものとして理解されなければならない。

沈殿していかざるを得ない精神障害者は、過去の精神医学と、精神医療が意識的・無意識的に行ってきた<治療>の巨大な非人間的遺物だと私は考える。私達は二度と、同じ誤りをくり返してはならないのだと、肝に銘じておかなければならない。

そのために、現実に<分裂病>を発病したばかりの人間に対して、私達は絶対的に(!)積極的な対人的・対社会的な働きかけを行っていこうとしているのである。

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年12月14日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-167


この断続的な論考も、一般的な表現論からすこし離れて、ある意味できわめて各論的な精神医学の分野にかかわりすぎたという気がしないでもない。だが、ここまで<世界の病むこと>の内にかかわってきた以上、もう少しだけ歩を進ませて述べさせてもらいたい。

私が現在勤務している精神病院は、東京都の私立精神病院のなかでは、その歴史にしろその規模にしろ代表的な病院といってよい。

だから、この病院の歴史は、そのまま日本の私立精神病院がたどってきた精神医療の歴史だと考えて過言ではない。そして、それだけではなく現代の精神医療の状況と、精神衛生法体制の中核を担う病院として、現在もなお厳然と機能しているのである。



(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年11月13日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-166

私は、ここで先に述べたF.Basagliaのいう「愛では不充分である。」(“Love is not enough”)という認識との対比について述べているのである。

しかし、このように述べたD・クーパーは次第に彼の精神医学における実践を通して政治的関心の方向へとむかい、権力を持たない者の権力・対組織(Counter-organization)の形成などに没頭していったことも周知の事実である。今回のシンポジウムの席上でも彼は、反精神医学の国際ネット・ワーク(Reseau International)への参加を叫んでいた訳であるが、私はしかし、現在の時点でなおかつ、「分裂病的な端緒場面の意味を理解するのに必要なのは、何か新しい種類の方法ではなく、新しいこころなのです。」と語るD・クーパーの言葉の持つ意味について思いをめぐらすのである。

ここには、単純な運動論を突き抜けた新しい生き方の模索が暗示されているように思われるのだ。私達にとって、理論と現実との齟齬が既に古典的な前提であるとき、ただ単に現状分析や認識論をふりかざして、「概念や理論とアクチュアルな状況との乖離」という現象を裁断してみてもそれほど意味がある訳ではない。無論、権力構造の問題への鋭い認識を措定しておくことは不可欠だとしても、この現象を、内的な場面での変様にまでつきつめて考えなければ、<分裂病>をめぐる私達自身の関係、想像力や日常性の問題へとその構造を行きつかせることはできはしないのである。

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年10月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-165

私自身は、現象学的・人間学的な運動について考え、行為し、述べようとしている訳であるが、現在もなお政治的運動としての医療の問題を曖昧にしか総括し得ないでいる。

だが、例えばF・Basagliaが結論づけた一つの反権力的な意志は、既に政治的なものではなく、鋭く人間の生き方の問題に触れるものだと言えるのである。私は、政治的運動の挫折として、あるいは政治的運動が無力であるときに<人間学>が存在するという考え方ではなくて、このような認識は、政治的運動の一つの成果であると考えたいのである。

かつて、D・クーパーは“The Death of the Family”(家族の死)という論文集のなかで私達の内的な(抑圧的な)家族の構造(“Internal Family”)の分析において、次のような見取り図を描いた。

すなわち、家族的機能の基本的な要素は、母子の不充分性をもとにした結びつきにあるのであって、そこでは常に、既に何重にも女性として抑圧を受け、不全感を持ち続けている母親という存在が子供の上にのしかかり、母親の不足を子供に結びつけようという無言の意志が働いている。だから、このような家族構造の内にあっては子供は決して母親以上に完全になることは出来ないのである。子供は、あたかも母親にとっての“Penis”として存在してきたのだから。このような内的な過程を通して、母子共生(Symbiosis)という異常な人間関係がうまれ、それが<精神分裂病>へと発展していくことを想定することができるという。そして、D・クーパーはこの過程から抜け出す方法は、たった一つしかないと述べる、それは、愛(Love)の自由な温かさなのであると。

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年10月09日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-164

しかし、F・Basagliaの実践はついには挫折的に終末を余儀なくされたのであり、彼は綿密な現状分析をふまえて、現在ではこのような政治的行為は現実の力となるまでには熟していないのであって、現在自分達に出来ることは常に疎外の問題に対してするどい認識を持ち続けることしかないと悲観的に結論しているのである。

Maxwell Jonesの実践と理論については後で詳しく述べることにするが、日本に於いても、ここ三年程の間に、精神医療を純粋に政治的な問題として把握する運動は次々と、さまざまな壁に突きあたった。壁に突きあたるたびに、<精神病者>あるいは<分裂病者>をあらゆる課題の原点に据えなければならなかった訳だが、その度に確実に問題は深く<病む人間>の問題の側に足を踏み入れてきたのであった。精神医療を政治的運動としてとらえる考え方も、現在ではさらに方法論を拡大していかねばならなくなっていることは事実である。まさに、「精神分裂病とは何か」という問題をそのための中核に置かなくては、一歩も政治的な運動を展開できないのである。しかし、このことはこうした運動が激しく模索してきた方法の豊かな果実の一つであると私は考えている。

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

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