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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2021年05月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-183

レインのいくつかの論考が、しだいに苦渋の色を深めながら、精神医学という狭い枠組を越えていく過程は必然的なものであったといってよい。いつからかレインは論理を展開し、仮説を提示することをやめてしまう。人間の内面に、内面にと下降あるいは上昇していったもののみが手にする<言語>そのものに突きあたっていくのだ。レインは既に指導者であることをやめる。理論家であることをやめる。思想家であることをやめる。

レインの<言語>はただ<表現>としかいいようのないものへと連なっていく。そしてその過程で生まれたのが、“Knots”という詩集である。(詩集といってよいか、むしろ表現集である。)


われわれは子どもにわれわれを愛するよう、われわれを尊敬し、われわれに従うよう教える義務がある。
もし子どもがそうしなかったら、罰しなければならない。罰しないなら、われわれの義務を怠っていることになる。
もし子どもがわれわれを愛し、尊敬し、われわれに従いつつ大きくなったとするなら、われわれは、子どもをよく育てたことで祝福されるであろう。
もし子どもがわれわれを愛さず、尊敬せず、われわれに従わないで大きくなったとしたら、われわれが子どもを適当に育てたか、または育てなかったかのいずれかである。

われわれが子どもを適当に育てたとすれば、子どものなかに何かわるいところがあるに違いない。
われわれが子どもを適当に育てなかったとすれば、われわれのうちに何かわるいところがあるに違いない。


例えばこの詩を、レインの家族関係論のなかでの二重拘束理論そのものの置換であると解釈することは正当でない。

ここには、現に生存する人間対人間の非権力の原始への愛の唄とでもいうべき、やさしい基調が波うっているのであって、レインによる世界への子守唄ともいうべきものである。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年04月02日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-182

「息苦しい壁」というものを、吉本隆明がどのように解釈しているのかはかなり明白だが、ここには疾患のアウトラインのみがあって個的な人間にかかわりあう<心的現象>は何ひとつ存在しない。吉本隆明は<心的現象>という名辞によって、確実に差別されてきた人々の<人間>をとらえていない。そもそも患者=人間の存在しない精神医学も、精神病理学も、精神病院も、精神衛生法もあり得はしないのだ。私たちは単なる認識論、とりわけ精神病理学のみから<心的現象>をとらえることの危険性を胆に銘じておかなければならない。総じて精神医学は、現在非常に困難な状態に直面している訳だが、そこで問い直されなければならないのは<人間>そのものであり、その人間の<表現行為>の深層である。

吉本隆明の論拠が多くの精神病理学書、精神分析に関する書物等々から成り立っているとき、それらを感情の乱れもみせずに引用している吉本隆明の位相を私は疑わざるを得ないのだ。私たちは、私達自身の問題提起なしにブロイラーやクレペリンにたちもどることは許されないのである。

一人の“精神障害者”が存在するだけでまきおこる家族関係の、隣人との、地域社会との、医療との、法律と権力との、そして人間生活おしなべてのすさまじい状況の嵐は一体何なのだろうか。私たちはこのことに触れなければ、<心的現象>について何も語れないのではないだろうか。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年02月18日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-181

一九六五年のキングスレイ・ホールの宿泊施設は、医師も、看護婦もいない共同体としての精神病院であった。精神分裂病を精神医学と状況とによって規定されたものとして、とりわけ家族の文脈の内で形づくられたものと解釈した反精神医学は、理念としても、運動としても、まだ挫折してはいない。分裂病患者を正常人の文脈のなかでとらえる、また逆に正常人を分裂病者の文脈のなかでとらえるという対人関係論の仮説は、家族関係の文脈の中での二重拘束理論とともにはかり知れぬ影響力を持ち得ているのである。

「人は内側にいる」

レインは厳しく断言する。

かつて吉本隆明は『心的現象論序説』のなかで次のように述べた。


わたしたちは、純粋疎外の心的領域を想定することによって、分裂病概念の内側にややふみこむことができたはずである。現在の段階で、わたしたちが謙虚さを失わずにいいうることはたったこれだけであり、また幾重にも息苦しい壁が立ち塞がっているのを感じる。


『心的現象論序説』が私たちに与えた衝撃の強さは決して無視しえないものであった。だがそれにもかかわらず、一つの作業として私はこの労作に対して批判的である。吉本隆明の思想的営為のなかでこの『心的現象論序説』が持ち得る位置の決定的な深刻さを思うとき、私には決して軽々しく論ずることはできないが、私は吉本隆明が用いた方法論=認識論に対して強い不満を持っている。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年01月04日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-180

例えば、私はいま一人の人間としてR・D・レインのことを考えている。

正確にいえば、一九六九年に“The politics of The Family and Their Eyes”を出版してから、一九七〇年に“Knots”と題する詩集を書きあげるに至る、レインの内的あるいは状況的な経緯が私を強くひきつけてはなさない。

R・D・レインはいうまでもなく、D・G・クーパー等とともに反精神医学の旗手であった訳だが、現在まで、きわめて一面的な解説しか日本では一般化されていない。雑誌『現代思想』の“マルク-ゼ・ラカン・レイン特集号”でもレインの視点は完全に逆転されてしまっている。

反精神医学運動の支柱として『ひき裂かれた自己』、『狂気と家族』等の著作からはじまったレインの仮説は、日本の精神医学界をも確実にゆるがせたのだが、レインの生き方のまさに開かれたあり方として、まだその豊かな成果は、まさに「死んだ馬」ではあり得ないでいる。

『ひき裂かれた自己』はいまだ旧来の意味での精神現象学の範疇を越えず、レインそのものの感性に支えられた解釈学の試みにすぎなかったのだが、“The politics of experience and The bird of paradice”以後、レインの思考は私たちにおびただしい埋もれていく側の声の発掘を、とかりたてる心的な力学をよび覚したはずである。

レインが、「状況のなかの現象学的精神医学」と語るとき、その「状況」というのは単に精神医学という学問のなかの「状況」ではないように、「現象学」というものも、学問のなかの「現象学」ではあり得ない。後に、「政治学」という表題が多用されるように、それは人間の内部意識における権力関係の鳥瞰図であった。

内側から外側への
死から生への
後から前への
不死性から死の可能性への
自己から新しい自我への
宇宙的胎児状態から実在的再生への航海

と書き連ねたレインの息苦しいまでのやさしさが私をとらえてはなさない。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2020年12月01日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-179

Ⅴ 状況のなかの精神医学

 私が日常的にかかわっている精神医療は、現在、大きな変革期にある。その大きな変革の嵐を呼びおこしている精神医学における状況論の措定ということを主題として私はいくつかの論考を書いてきた。ここでは、そのなかでも表現の問題に関連してR・D・レインについて触れた文章を載せた。「状況のなかの精神医学」はこれらの問題の位置づけのために書き下したものである。そしてこれは同時に私自身の行為と思想の定立でもある。


詩と反精神医学と
――あるR・D・レイン論の試み


人間の表現行為をその源泉にまでさかのぼって考えるとき、一個人の状況との関わりあいのなかで主観的・客観的な抑圧の構造がどのような力動を持つものであるかを問うことは必要なことである。

いま、表現の流通機構の再構築という課題が私をとらえてはなさないでいるが、それはどのような意味においても抑圧の主体の側に至ることのできない一つの関係を、明らかに未完のままとり出すための見果てぬ夢である。

「支配というのは、挙示しうる一群の人びとを特定の(またはすべての)命令に服従させるチャンスのことである、と定義風にいっておく。それだから、『勢力』や『影響力』を他の人びとにおよぼすチャンスであれば、どのような種類のものでも支配であるということにはならない。こうした意味での支配(権威)は、個々のばあいには千差万別な服従の動機にもとづくことがありうる。つまり、この動機は、無反省なしきたりからはじまって、純粋に目的合理的な打算にまでわたっている。一定最小限の服従意欲、したがって、服従への(外的または内的な)利害関心こそは、あらゆる真正の支配関係のめやすなのである。」(M・ウェーバー「権力と支配」)

ウェーバーの言葉はあらゆる意味で古典的である。にもかかわらず、私たちがここで確認しなければならないことがある。現在、いかなる権力的な人間の諸関係にも自分は加担しないという、激しく、しかもつつましやかな魂のひらきなおりが必要である。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

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