成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2018年09月11日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の平地を透視するものへ-163
例えば、イタリアの精神科医Franco Basaglia は彼のGorziaに於ける病院体験から、その悲劇的現実を目の前にして精神病院と、その病院の存在を許している社会経済的諸問題、そして精神医学そのものに対する批判を展開していった訳だが、彼は「精神病とは社会から人間的諸権利を剥奪されるところに産まれる病である。」と規定し、その故に社会的<状況>を変化させない限り何者も精神病を理解することは出来ないと認識した。そして、つねに患者に対して政治的な認識を高める努力をすることが最も必要であると考えるようになる。F・Basagliaは次のように述べる。
「暴力とは、力を持たないものに対してナイフを持っているという特権そのもののことである。」
「現在では精神科医は疎外された者の目を社会からそむけさせるための安全弁である。」
「従って精神科治療とは、暴力でのものの管理でもなく、疎外されてある者をだまらせるための方法でもない。」
「治療とは政治的な行為である。」(“Therapy is a political act.”)
このような立場から、F・Basagliaは単純な精神病院改革論者を批判し、さらには方法的に人間学的な改革論者をも批判したのであった。例えば、イギリスに於ける精神病院改革の旗手であったMaxwell Jonesを批判し後者に対しては、「愛では不充分である。」(Love is not enough“)という一語をもって批判にかえたのであった。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年08月24日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の平地を透視するものへ-162
現在、いくつかの精神病院のなかで、政治的運動ではなく、人間学的な運動として<世界の病むこと>を把握しようとする試みは、多くの場所でさまざまな困難につきあたっている。精神医学、精神病院のかかえ持つ過去の巨大な蓄積の前に私達の力は、まだ微力である。しかし、私達は、一歩一歩自分自身の生き方に正直に(非権力的に!)行為していくしかないのである。
一九七五年の日本精神神経学会に出席した反精神医学の代表的論者であるD・クーパーは、その演題「精神分裂症とは何か」のなかで端的に次のように語っていた。
「分裂症的な端緒場面の意味を理解するのに必要なのは、何か新しい種類の方法ではなく、新しいこころなのです。」
私はいま、実に簡単に政治的運動ではなく、人間学的な運動を、と述べたのであるけれども、現在の精神医療をめぐる激しい流れのなかでこの二つの過程はそのなかに個々人の厳しい苦悩を含みながらいまもなおすさまじく進行中の出来事を意味するのである。
反精神医学を、現象学的、人間学的精神医学の一里塚と見なすのか、それともラディカル・サイコロジーの出発点として把握するのかということをめぐっても私達の評価は不幸にも一致し得ないのである。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年08月05日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-161
ⅱ
私達が、幾重にも曖昧さをあとに残したまま、敢えて<人間>概念をすべての世界定位の中核に据えようとするとき、私達はどうしても書斎のなかで思考し、文献学的に論じるということそのものに対して激しい批判を投げかざるを得なかった。しかし、それは単に社会変革だのといったマクロ的な問題解決を指向することには直接にはつながらず、現に、私自身の目の前に現存する「世界の病むこと」を背負っている<患者>を私自身の生き方の内にどのように問題とするのかということなのである。「彼は人間ではない!」と断言するかのような精神病院も、精神衛生法も、既成の精神医学も、まさに概念として存在せているのではなく、私達の日々の営為の中に巨大な差別的な実体として存在しているのである。私達にとって人間の尊厳とか精神の深遠などどという言葉ほどむなしく響くものはない。これらのもっともらしい言葉は、まさしく人間存在の一〇〇人のうちの一人として存在する<分裂病者>を遠く遠く、視野の圏外に排除してしまった者の言葉である。
最近、再び頻回に引用されるようになったミシェル・フーコーがかつて述べたように、精神病理学とか心理学の存立というのは、<狂人>を隔離し、疎外したことによってはじめて可能となり、また必要となった学問であるという事実を想起しなくてはならない。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年06月28日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-160
みずから、精神病院のなかに体育助手として入り込むことによって患者達と生活をともにし、精神病院の社会学的研究を行おうとしたE.Goftmanは、その著作“Asylums”のなかで次のように語っている。
「精神病院が精神科治療であるという精神医学の素朴な見方からは、精神病院がどんな所で、またその中で何が起こっているのかを見極めることはできない」
「特に重要なことは、重要な他者によってある体験が<症候>として規定されるということである。それらの他者は、そのふるまいが手に負えず、攻撃的であると体験し始めた時、それを精神疾患の症候であると規定し始める」
「(症候とは)公的秩序と考えられているもの(特に人々の対面的な相互行為を支配している秩序)に対する違背のことである」
Goftmanは精神病院の社会学的分析を通じて、Total Institutionという概念を導き出している。それは、
「同じような境遇の多くの人々が、しばらくの間、外部の社会から切り離され閉じ込められて、厳格に管理された生活を共に送って行くような居住と仕事の場所」と表現されている。また、次のようにも述べられる。
「Total Institutionとは他者を貶めることによって自分自身をも、そして人類全体をも貶めるような社会関係の極端な形に他ならない」
Goftmanの“Asylums”については雑誌『精神医療』(岩崎学術出版)の最近号で、やはり社会学から精神衛生学に踏みこんだ宮本真巳がくわしく述べているので、参考にされたい。
私達が簡単に人間の言語表現から、心的現象の、現象学的記述を引き出し得ると考えた時代は既に終りを告げているのである。私達はすべての症候論からのがれて、その人間の状況そのもののなかに現象学の方法論を拡大させていかねばならないのである。
私達の作業が、単に反精神医学とか、反精神病院といった、今では使い古され、幾重にも歪曲された運動に収束するのではなく、真に自由な表現論を手にするまでの原理的な基盤となり得ないだろうかと、私達は常に願っているのである。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年05月29日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-159
学問としての精神医学が、総じて膨大な文献学に終始し、精神病院のほとんどが、その経営と組合対策を何よりも優先させてきた日本の精神医療の現実のなかで、あらゆる意味で幾重にも疎外され続けてきた、分裂症を病む人間存在のあり様はあまりにも非人間的である。「あの人たち」は、差別と呼ぶにはあまりにも完璧な隔離のなかで、まさに意味のない言語を語り続けるか、おそろしい沈黙を守るかのどちらかとなって、最小限の生命をほそぼそと耐えなければならないのである。
かつて、症候としての精神医学的記述は精神分裂を病む人間の思考障害として、思路弛緩だの、思路滅裂だのと規範づけてきた。だが現在では簡単にこのような名辞によって示すことはできないということが要請されているのだ。ある人間のおかれた状況的、肉体的・精神的な歪みの総体として人間の存在をとらえなくてはならないとすれば、「あの人たち」の言語は、「あの人たち」の追い込まれた生活空間というフィルターをとおして発せられたものであると原理的に理解しなくてはならない。
さらに、もう一つの問題は、発せられたある言語表現は、感情表現としても意味伝達性としても、それを解釈する他者の存在の状況的裏付けのもとに厳しく限定されていることである。言語表現のもつ本質的な階級性が問題なのであって、この事実を認識しない限り、私達は言語表現をとおして、人間存在の肉体的現象を分析するという方法論を失ってしまうことになるのである。逆に言えば、私達はこのい厳しい言語の階級性を認めたうえで、はじめて真の人間的接触と解釈とを表現のなかに見出すことができるのである。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)