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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2018年08月05日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-161



私達が、幾重にも曖昧さをあとに残したまま、敢えて<人間>概念をすべての世界定位の中核に据えようとするとき、私達はどうしても書斎のなかで思考し、文献学的に論じるということそのものに対して激しい批判を投げかざるを得なかった。しかし、それは単に社会変革だのといったマクロ的な問題解決を指向することには直接にはつながらず、現に、私自身の目の前に現存する「世界の病むこと」を背負っている<患者>を私自身の生き方の内にどのように問題とするのかということなのである。「彼は人間ではない!」と断言するかのような精神病院も、精神衛生法も、既成の精神医学も、まさに概念として存在せているのではなく、私達の日々の営為の中に巨大な差別的な実体として存在しているのである。私達にとって人間の尊厳とか精神の深遠などどという言葉ほどむなしく響くものはない。これらのもっともらしい言葉は、まさしく人間存在の一〇〇人のうちの一人として存在する<分裂病者>を遠く遠く、視野の圏外に排除してしまった者の言葉である。

最近、再び頻回に引用されるようになったミシェル・フーコーがかつて述べたように、精神病理学とか心理学の存立というのは、<狂人>を隔離し、疎外したことによってはじめて可能となり、また必要となった学問であるという事実を想起しなくてはならない。

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年06月28日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-160

みずから、精神病院のなかに体育助手として入り込むことによって患者達と生活をともにし、精神病院の社会学的研究を行おうとしたE.Goftmanは、その著作“Asylums”のなかで次のように語っている。

「精神病院が精神科治療であるという精神医学の素朴な見方からは、精神病院がどんな所で、またその中で何が起こっているのかを見極めることはできない」

「特に重要なことは、重要な他者によってある体験が<症候>として規定されるということである。それらの他者は、そのふるまいが手に負えず、攻撃的であると体験し始めた時、それを精神疾患の症候であると規定し始める」

「(症候とは)公的秩序と考えられているもの(特に人々の対面的な相互行為を支配している秩序)に対する違背のことである」

Goftmanは精神病院の社会学的分析を通じて、Total Institutionという概念を導き出している。それは、
「同じような境遇の多くの人々が、しばらくの間、外部の社会から切り離され閉じ込められて、厳格に管理された生活を共に送って行くような居住と仕事の場所」と表現されている。また、次のようにも述べられる。

「Total Institutionとは他者を貶めることによって自分自身をも、そして人類全体をも貶めるような社会関係の極端な形に他ならない」
Goftmanの“Asylums”については雑誌『精神医療』(岩崎学術出版)の最近号で、やはり社会学から精神衛生学に踏みこんだ宮本真巳がくわしく述べているので、参考にされたい。

私達が簡単に人間の言語表現から、心的現象の、現象学的記述を引き出し得ると考えた時代は既に終りを告げているのである。私達はすべての症候論からのがれて、その人間の状況そのもののなかに現象学の方法論を拡大させていかねばならないのである。

私達の作業が、単に反精神医学とか、反精神病院といった、今では使い古され、幾重にも歪曲された運動に収束するのではなく、真に自由な表現論を手にするまでの原理的な基盤となり得ないだろうかと、私達は常に願っているのである。

 (Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年05月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-159

 学問としての精神医学が、総じて膨大な文献学に終始し、精神病院のほとんどが、その経営と組合対策を何よりも優先させてきた日本の精神医療の現実のなかで、あらゆる意味で幾重にも疎外され続けてきた、分裂症を病む人間存在のあり様はあまりにも非人間的である。「あの人たち」は、差別と呼ぶにはあまりにも完璧な隔離のなかで、まさに意味のない言語を語り続けるか、おそろしい沈黙を守るかのどちらかとなって、最小限の生命をほそぼそと耐えなければならないのである。

 かつて、症候としての精神医学的記述は精神分裂を病む人間の思考障害として、思路弛緩だの、思路滅裂だのと規範づけてきた。だが現在では簡単にこのような名辞によって示すことはできないということが要請されているのだ。ある人間のおかれた状況的、肉体的・精神的な歪みの総体として人間の存在をとらえなくてはならないとすれば、「あの人たち」の言語は、「あの人たち」の追い込まれた生活空間というフィルターをとおして発せられたものであると原理的に理解しなくてはならない。

 さらに、もう一つの問題は、発せられたある言語表現は、感情表現としても意味伝達性としても、それを解釈する他者の存在の状況的裏付けのもとに厳しく限定されていることである。言語表現のもつ本質的な階級性が問題なのであって、この事実を認識しない限り、私達は言語表現をとおして、人間存在の肉体的現象を分析するという方法論を失ってしまうことになるのである。逆に言えば、私達はこのい厳しい言語の階級性を認めたうえで、はじめて真の人間的接触と解釈とを表現のなかに見出すことができるのである。

  (Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年05月08日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-158

私は、ほとんど毎日同じ道のりを通って、現在私の勤務する精神病院に通う。

病院の門から庭に入って、私は大きく胸をはってすべての建造物と、人物を見つめたことは一度もなかったと考える。私はいつも、小さくうつむくように歩くのだ。

病院の敷地のなかには、「あの人たち」がいる。昼間だけ申し訳程度に鍵がはずされる老旧化した開放病棟、「あの人たち」が望んだことは一度もないはずの、賃金の支払われない不毛の労働を要求される作業病棟、そして誰が何と理由づけようが鉄格子としか表現のしようがない閉鎖病棟。

「あの人たち」は「あの人たち」なりの効率に従って作業をしている。効率こそ、正常な社会の神話だとしたら、ここにはやはり病者しかいない。だから無論、「あの人たち」が作業を欲した訳ではない。作業を提供するのは常に「私たち」なのだった。

いつ、いかなる時代にあっても、「あの人たち」と「私たち」とは人間の存在として最も遠い社会関係にあった。日常生活ではもちろん、生産においても、治安管理においても、幾重にも疎外され、精神衛生とか、社会福祉とかいう欺瞞的な名辞からは、もっとも完璧に疎外された人たちとして「あの人たち」はあった。この事実は、この疾患の原因如何とは何のかわりもなく、またその原因によっていささかも変りはしないのである。

人間存在の一〇〇人に一人という巨大な数の人間を、深く深く鉄格子の内部に隠し続けたまま、私達の生活が存続されていく。精神病院こそは社会的治安のすばらしい安全弁であったという事実は認めてよい。


(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年04月19日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-157

精神分裂症と人がいうとき、そこには既にこの疾患のあらゆる内実とは無関係な、おぞましい暗黒のプロフィールが浮遊していて、この疾患を病む人間を二重にも、三重にも疎外しているのだ。

同僚の精神科医・渡辺明子はかつて私的な通信文のなかで、激しい想いをこめて「あの人たち」と呼んだ。私も、いま「あの人たち」としか語れない。「あの人たち」は、永遠に私の内なる「あの人たち」という位置にあり、「あの人たち」の言葉と、表現で語りかけてくる。

精神分裂を病むことは、世界の病むということの第一のものであるとメダルト・ボスは語ったことがある。事実、統計的にはあらゆる文化的状況にかかわらず一〇〇人に一人の精神分裂を病む人間がいる。だから、精神分裂を病む人間の存在は、それ自体として一つの人間存在のあり様を示していると考えるのも、あながち的はずれだとは言い切れない。それは、いうまでもなく、分裂症の本態を大脳内の器質的疾患としてとらえるか否か、というような問題とは本質的に何のかかわりあいもない。こうした議論は、例えば精神分析のいくつかの学派が、その原因はともかくとして、分裂症の本質を、プロセス(進行性病変)としてとらえていることとはまさに表裏の意味で、精神分裂を病むことを人間的、現象学的にとらえようとするとき、まず多くの場合不毛なものである。

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

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