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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2018年05月08日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-158

私は、ほとんど毎日同じ道のりを通って、現在私の勤務する精神病院に通う。

病院の門から庭に入って、私は大きく胸をはってすべての建造物と、人物を見つめたことは一度もなかったと考える。私はいつも、小さくうつむくように歩くのだ。

病院の敷地のなかには、「あの人たち」がいる。昼間だけ申し訳程度に鍵がはずされる老旧化した開放病棟、「あの人たち」が望んだことは一度もないはずの、賃金の支払われない不毛の労働を要求される作業病棟、そして誰が何と理由づけようが鉄格子としか表現のしようがない閉鎖病棟。

「あの人たち」は「あの人たち」なりの効率に従って作業をしている。効率こそ、正常な社会の神話だとしたら、ここにはやはり病者しかいない。だから無論、「あの人たち」が作業を欲した訳ではない。作業を提供するのは常に「私たち」なのだった。

いつ、いかなる時代にあっても、「あの人たち」と「私たち」とは人間の存在として最も遠い社会関係にあった。日常生活ではもちろん、生産においても、治安管理においても、幾重にも疎外され、精神衛生とか、社会福祉とかいう欺瞞的な名辞からは、もっとも完璧に疎外された人たちとして「あの人たち」はあった。この事実は、この疾患の原因如何とは何のかわりもなく、またその原因によっていささかも変りはしないのである。

人間存在の一〇〇人に一人という巨大な数の人間を、深く深く鉄格子の内部に隠し続けたまま、私達の生活が存続されていく。精神病院こそは社会的治安のすばらしい安全弁であったという事実は認めてよい。


(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年04月19日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-157

精神分裂症と人がいうとき、そこには既にこの疾患のあらゆる内実とは無関係な、おぞましい暗黒のプロフィールが浮遊していて、この疾患を病む人間を二重にも、三重にも疎外しているのだ。

同僚の精神科医・渡辺明子はかつて私的な通信文のなかで、激しい想いをこめて「あの人たち」と呼んだ。私も、いま「あの人たち」としか語れない。「あの人たち」は、永遠に私の内なる「あの人たち」という位置にあり、「あの人たち」の言葉と、表現で語りかけてくる。

精神分裂を病むことは、世界の病むということの第一のものであるとメダルト・ボスは語ったことがある。事実、統計的にはあらゆる文化的状況にかかわらず一〇〇人に一人の精神分裂を病む人間がいる。だから、精神分裂を病む人間の存在は、それ自体として一つの人間存在のあり様を示していると考えるのも、あながち的はずれだとは言い切れない。それは、いうまでもなく、分裂症の本態を大脳内の器質的疾患としてとらえるか否か、というような問題とは本質的に何のかかわりあいもない。こうした議論は、例えば精神分析のいくつかの学派が、その原因はともかくとして、分裂症の本質を、プロセス(進行性病変)としてとらえていることとはまさに表裏の意味で、精神分裂を病むことを人間的、現象学的にとらえようとするとき、まず多くの場合不毛なものである。

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年03月19日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-156

世界の病むこと



私は一人の精神科医として、精神障害者と診断づけられた(或は、私が診断した)人々の心的現象を、あくまでも全人間的視野から問題とすべきだと考えている。疾患をめぐる症候群も、構造論も、そして現在の精神医療と治療概念も、すべて一個人の人間的営為のなかでとらえかえさなければならない。「狂気」を「狂気」として私達の側に氾濫させるものではなく、「狂気」をバラバラに分解させ、主観的な状況の場で、人間学としてよみがえらせたうえで再構築していかねばならない。

私達は、既存の精神医学のあらゆる部分がどんなことを行ってきたか、うすうすと気付きはじめている。だから、私達は新しい方法論を構築しながら一歩一歩、私達の主観に誓って納得できることだけを実践していくしかない。既存の精神病理学、現象学によってカルテを書かないこと。疾患の分類と診断の概念に構造的、状況的色彩をどこまでも導入していくこと。精神医療という莫大な非人間的要素を含んだ体系の内実を明らかにしていくこと。

私達の作業は、学問的とはいえないかもしれない。だが、そうだとしたら学問とは何かという一語をもって、学問を私達の側にひきよせなければいけないと、考えるようになった。私達が精神衛生法や精神病院の系統的批判を考えていると、別の研究室では、向精神薬の再検討について研究し、クロールブロマジンの人体血中濃度について分析し、電気睡眠について実験的分析を行い、精神分裂症の予后についての文献学的考察を行い、境界例の精神分析的解釈を論じ……という現象のなかで、スッポリと抜け落ちてしまう何かについて、私達は気づきはじめている。

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年02月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-155

だが、エリクソンが主観を状況として把握する場所が既に精神分析をはじめとする諸概念によってガチガチに固められてしまっている限り、状況のなかにただようように存在している人間の、その内部意識などに触れるべくもなかったのである。エリクソンの自我の総合力とは無縁の生き方のなかに、その個人の存在様式をうずめてしまっている人間達の生き方や、唄はどこからものぼってこないのである。そして、いまやエリクソンの言う社会変動よりも、一層激しい人間的価値が切実に問われようとしている。この時、エリクソンはどう答えようとしているのだろうか。

私は、主観――客観の対立図式を中心に極めて現代的な思想について触れてきた。それはただ単に触れてきたにすぎない。それでは私自身のものとして、表現論をどのように考えているのか、今度はそれについて私の言葉で語らなければならないのである。

 “表現の現象学”の項を今回で打ち切るのもそのためでる。次回から、私は自分の言葉で語り、自分の症例について述べ、私自身の生き方を考えていくつもりである。私はその項目に、“世界の病むこと”という表題をつけようと思う。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 完)

2018年02月01日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-154

 それでは、視点を180度転換して、状況の側から意識へと接近することはどうなのか。
 こうした接近をテーマにある程度の論理を展開させたのがエリクソンである。
 私が、この表現論のなかで何度も述べたようにエリクソンの“アイデンティティ・クライシス”の問題Identity diffusion Syndrom“自我拡散症候群”の呈示はかなりみごとに状況と自我との要点を描き出していた。エリクソン自身も、既に主観と客観は社会変動そのものに目をむければ問題にならないものとして止揚されたと考えていた。
 「かつての精神分析療法の治療目標そのものが、エスの可動性 the mobility of the id 超自我の寛容力 the tolerance of the superego、自我の総合力 the synthesizing power of the ego の、同時的な増進と、定義さ れたことがあった。そしてわれわれは、この最後のところ、つまり自我の総合力に、各個人の子ども時代の環境を支配した歴史変動と関連した各個人の自我同一性を含むべきであるという提案をつけ加えたい。なぜならば、各個人の神経症の克服は、彼を今のような彼にした歴史的必然を受け入れるところから始まるのである。各個人が自己自身の自我同一性との同一化を選択することができる時、そしてまた与えられたものをなさねばならないことへの転換することができる時、人間は自由を体験するからである」
  (「自我の強さと社会病理学」)
 
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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