成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2018年03月19日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-156
世界の病むこと
ⅰ
私は一人の精神科医として、精神障害者と診断づけられた(或は、私が診断した)人々の心的現象を、あくまでも全人間的視野から問題とすべきだと考えている。疾患をめぐる症候群も、構造論も、そして現在の精神医療と治療概念も、すべて一個人の人間的営為のなかでとらえかえさなければならない。「狂気」を「狂気」として私達の側に氾濫させるものではなく、「狂気」をバラバラに分解させ、主観的な状況の場で、人間学としてよみがえらせたうえで再構築していかねばならない。
私達は、既存の精神医学のあらゆる部分がどんなことを行ってきたか、うすうすと気付きはじめている。だから、私達は新しい方法論を構築しながら一歩一歩、私達の主観に誓って納得できることだけを実践していくしかない。既存の精神病理学、現象学によってカルテを書かないこと。疾患の分類と診断の概念に構造的、状況的色彩をどこまでも導入していくこと。精神医療という莫大な非人間的要素を含んだ体系の内実を明らかにしていくこと。
私達の作業は、学問的とはいえないかもしれない。だが、そうだとしたら学問とは何かという一語をもって、学問を私達の側にひきよせなければいけないと、考えるようになった。私達が精神衛生法や精神病院の系統的批判を考えていると、別の研究室では、向精神薬の再検討について研究し、クロールブロマジンの人体血中濃度について分析し、電気睡眠について実験的分析を行い、精神分裂症の予后についての文献学的考察を行い、境界例の精神分析的解釈を論じ……という現象のなかで、スッポリと抜け落ちてしまう何かについて、私達は気づきはじめている。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2018年02月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-155
だが、エリクソンが主観を状況として把握する場所が既に精神分析をはじめとする諸概念によってガチガチに固められてしまっている限り、状況のなかにただようように存在している人間の、その内部意識などに触れるべくもなかったのである。エリクソンの自我の総合力とは無縁の生き方のなかに、その個人の存在様式をうずめてしまっている人間達の生き方や、唄はどこからものぼってこないのである。そして、いまやエリクソンの言う社会変動よりも、一層激しい人間的価値が切実に問われようとしている。この時、エリクソンはどう答えようとしているのだろうか。
私は、主観――客観の対立図式を中心に極めて現代的な思想について触れてきた。それはただ単に触れてきたにすぎない。それでは私自身のものとして、表現論をどのように考えているのか、今度はそれについて私の言葉で語らなければならないのである。
“表現の現象学”の項を今回で打ち切るのもそのためでる。次回から、私は自分の言葉で語り、自分の症例について述べ、私自身の生き方を考えていくつもりである。私はその項目に、“世界の病むこと”という表題をつけようと思う。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 完)
2018年02月01日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-154
それでは、視点を180度転換して、状況の側から意識へと接近することはどうなのか。
こうした接近をテーマにある程度の論理を展開させたのがエリクソンである。
私が、この表現論のなかで何度も述べたようにエリクソンの“アイデンティティ・クライシス”の問題Identity diffusion Syndrom“自我拡散症候群”の呈示はかなりみごとに状況と自我との要点を描き出していた。エリクソン自身も、既に主観と客観は社会変動そのものに目をむければ問題にならないものとして止揚されたと考えていた。
「かつての精神分析療法の治療目標そのものが、エスの可動性 the mobility of the id 超自我の寛容力 the tolerance of the superego、自我の総合力 the synthesizing power of the ego の、同時的な増進と、定義さ れたことがあった。そしてわれわれは、この最後のところ、つまり自我の総合力に、各個人の子ども時代の環境を支配した歴史変動と関連した各個人の自我同一性を含むべきであるという提案をつけ加えたい。なぜならば、各個人の神経症の克服は、彼を今のような彼にした歴史的必然を受け入れるところから始まるのである。各個人が自己自身の自我同一性との同一化を選択することができる時、そしてまた与えられたものをなさねばならないことへの転換することができる時、人間は自由を体験するからである」
(「自我の強さと社会病理学」)
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)
2018年01月18日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-153
広松渉は述べている。
「われわれは、まだ、この「図式」(主観――客観という)に根強く捉えられており、今日、それに代えて認識を述定しうべき既成の概念装置を持合わせていない。現に、感覚や感情に至るまで本源的に社会的な形象であることはいちはやく指摘し、社会的諸関係の総体として、いわば具体的普遍としての人間が共同主観的に営む対象的活動、これに視坐をとって認識を論じた有名なテーゼの継承者たちですら――当の始祖は「主観――客観」という用語法を注意深く回避した形跡が認められるにもかかわらず――再びSubjekt-Objekt-Schemaに回帰してしまっている現実を思うにつけ、当の図式を超克することはいかにも困難である。」
「だが……主観――客観図式がいまや桎梏となり、“逼塞情況”を現出しているとすれば、そしてこれを打開することなくしてはもはや一歩も前進できない事態に逢着しているとすれば、たとえ徒労に終わろうとも、それを止揚すべく模索の途につくことが、当為となる所以である」(同前)
ことわっておくが、広松渉のいう“逼塞情況”というのは哲学の場での状況であり、私がかかわっている精神医学的、或は表現論のものとしてではない。だが、主観――客観の問題が哲学をも含めて、一つの壁につきあたっている状況は理解できるのではないか。広松渉が、この種の問題提起からはじめて展開する「共同主観論」は膨大なものであり簡単に要約することはできないが、それは主観を、個人的主観においてのみとらえる方法論の誤謬を指摘し、主観はもともと状況的、役割的、歴史的現象の総体として存在するものであることを立証し、この一点に於いて主観と客観は断絶なく延長するはずのものであったというのである。
広松渉の作業は、分野は異なるがかつての吉本隆明の作業にも似たところがあり、その点でも興味がわくのだが、そのことは他の場所にゆずる。
だが、私個人としては、「世界の共同主観的存在構造」はそれはあくまでも認識論のカテゴリーからの提出であること、また主観の問題を扱いながら、個別主観については検討を加え得る段階でないことなどから、まだまだ私達の有効な方法論としては完成されていないと言ってよい。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく…)
2017年11月27日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-152
彼等は、現象学的な方法論を人間の存在様式について導入した後に、「開かれた存在」としての人間存在を、世界内存在――現存在――実存、という図式の中に規定してきた。
メダルト・ボスは語る。「デカルトが哲学的に世界を思惟するものと、延長するものとに分けて以来、西欧の精神科医も、この主観――客観――分裂を出発点としてきたのです。しかし、現存在分析の指示にしたがい、われわれが人間として世界にあるもともとのあり方に、とらわれない目を向ければ、その瞬間、この害悪は決定的に克服されたことになります。さしあたって、ハイデッカーの現存在分析論は、なにかこれ以外のことを志向しているのではありません。それは、ただわれわれに出会うものを、もう一度単純に、歪曲されないで見ることだけを教えようとしています。」
このように語られる現存在分析の方法論は、しかしかならずしも細部まで明晰なものではない。ビンスワンガー・ボス等の卓越した才能は、従って秀れた後継者を得ることはできなかったのである。無論、私は精神医学、表現論を科学と認めて普遍妥当性を云々しようとする訳ではない。だが、私達を押し流そうとする状況の流れが、恐ろしく圧倒的な力量を持ち得ているとき、現存在分析の方法論はあまりに微視的にすぎ、私達の(きわめて劣性な側にいるものにとっての)効果的な武器とはなり得ないのである。
それでは、世界は現在、この問題に対していかなる回答を他に持ち得ているだろうか。マルクス主義・唯物論としてはどうか。この点で、最近私の興味をひくのは、物象化論という形で露呈してきた議論の一内派ともいうべき「共同主観論」の行方である。「共同主観」という非常に逆説的な言辞はさまざまに使用され、さまざまな意味性のうちにあるがここでは簡単に広松渉の「世界の共同主観的存在構造」についてのみ触れておく。
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)