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墨岡通信

成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。

2013年10月20日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-101

 まず、詩人が生活する空間を流通の機構から遠く疎外させること。したり顔をした流通機構の存在は、それがいかに反中央的、反党派的に見えようとまぎれもなく権力的な存在である。彼等は、ただその権力の在処を巧妙に詩人の感性へとおもねっているだけなのである。
 だからこそ、流通機構そのものを詩人が作っていると考えることは厳しい誤謬である。詩人の感性も、(むなしくも)こうした構造に関してはあてにならない。自己の内にある加害的な生き方についてどこまで深く自己認識できるかが、心優しい者に与えられた唯一の宿題なのである。
 例えば、詩人にとって、自己の詩そのものの内在的な必要性と、読者の側にとっての詩の必要性とは根本的に異質なものである。この原始的な悲しい亀裂について私達は奥深く考えるべきなのだ。この亀裂が存在し、この亀裂の中に流通の問題が存在しているとするならば、詩人の発する感性も、詩人の生き方もすさまじい歪曲の内側にあると言わなければならない。
 ここで、私は単に詩人と読者の存在の対立について述べている訳ではない。表現をめぐる真の意味での階級性の問題というものは、もっともっと別に極めて危機的なものとして存在するはずのものだが、それは別として、ここで、私は詩と表現の意味性を明らかにしたいのである。
 私達が詩の言語というとき、それが指し示すものは単なる想像力の範囲を超えたものである。イメージ、そして創造への意志。多くの比喩によって統合され、そしてまた引き裂かれ、詩語はついに意識の深奥、すなわち個人の内的経験のなかで他のどのようなものにも置換できない、純粋な力動へと連なっていくだろう。それが、表現の中核である。それ故に、表現の存在は純粋に人間の諸感覚以前のものとして規定されなければならない。そしてそれは常に私的表現以外のなにものでもあり得ない。
(Ⅱ表現論/表現へ! つづく・・・)

2013年09月03日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-100

 今日、詩人は自己の在り方の由来を<詩人>ということを別にして問い直さなければならない。詩が本来的に、人間の感性の問題とわかち難く結びついているというのなら、だからこそ、流通の内での<詩人>とは縁のない涯で詩の根源を問い続けていくべきではないだろうか。
 おびただしい私の意識、何故詩を書くのかと問い続けていこうとする私の意識の背後には、常に詩になり得なかった幾多の人間の表現への声々があるはずなのだ。そして、その人間一人一人の表現への意志のどれを抽出してみても、いかにも救いのない状況だけが拡散していこうとしているのに、その事実を無視することは出来ないのである。
 だから、個人における創造の問題は、実は感性として状況にかかわりあうのではない。それは絶対に、人間の唄でなければならない。
  「われわれは何者にも追いつこうとは思わない。だがわれわれはたえず歩きつづけたい。夜となく昼となく、人間とともに、すべての人間とともに。」
 こう語ったのはあのフランク・ファノンだった。思想史の中におけるファノンの位置も、精神医学の中におけるファノンの位置もまだ明確に定まっている訳ではないが、(それはファノンの表現のすべてを消化不良のままかかえこんでいる私達の側の責任なのだが)その表現は斬新で豊かなものであった。私達のなまはんかの視点や、知識を踏み越えてしまう何ものかを包んでいたと言えるのだ。
 あの、いまではあまりにも有名になってしまったファノンの言葉。
  「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないならば、橋は建設されぬがよい。市民は従前どおり、泳ぐか渡し舟に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものあってはならない。社会の全景にデウス・エクス・マキーナによって押しつけられるものであってはならない。そうでなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。」
 新しい価値意識が絶対に必要なのだということを確認しなければならない。いつの日にか、遠い道程を越えて私達の時代がくることを確信しなければならない。そのためにこそ、私達は新しい価値意識を固持しながらひらきなおり、心優しくなり、負けるかも知れないものを闘いとろうとしているのだ。
 その時、詩とは何か。詩に何ができるか。
(Ⅱ表現論/表現へ! つづく・・・)

2013年07月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-99-

表現へ!

 小説『心優しき叛逆者たち』に触れて、作者である井上光晴は次のように語っている。
 「叛逆とか革命の本質は、徹底して心優しきものだということですね。心の冷たい叛逆者は、本来ありえない。叛逆者に値しない。だから、“心優しき”という言葉をつけると二重になるんだけれども、本当の意味での叛逆的な叛逆者でなければならないことを強調したわけです。」
 「暗黒の時代といってもよいこのがんじがらめの世界にどう立ちむかっていくのか。心情もモラルも、理論も、すべてが悪しき者のためにに構築されている世界を、少しでも変えようとして生きるのは、とてもじゃないけど大変なことなんですね。それでも黙っているわけにはいかない。」
 暗黒の時代というこの時代の苦渋を、はっきりと認識するためには自らの加害的あり様を捨て去りながら、自分に忠実に生きることが必要だろうと思う。こうした位相を側面から支えるのは鋭い感性そのものである。
 詩人がまぎれなく感性を自己の存立の基盤としているなら、詩人にとってのこの時代は何なのか。

 例えば、現在の極端な現代詩の氾濫の内部にあって、真の意味における詩的表現の存在を見据えるということは困難なことである。
 詩的表現の流通機構は巨大なものとしてある。巨大であるということは無論、量の問題ではない。詩の流通などは、他の表現のメディアに比較すればとるにたらないほど微々たるものであることは明白である。相対的流通の立場からすれば、現代詩など実にささやかな一角を占めるにすぎない。しかし、この事実が逆に現代詩を流通の場で生きのびさせるために、固定化された詩人達を寡占するという論理を生み出しているのではないか。
 だからもはや、現代詩には真の意味性での冒険は生まれるべくもないのだ。冒険は一人の詩人の意識の内面で、また何よりも詩人の経歴の中で、限られた紙面と形式を利用していたずらに微分されていくだけである。
 詩人相互の、きわだった状況への視点など、どこにも見出すことは不可能である。
 この責任は、詩人が共通に負うべきものだろうと私は思う。
(Ⅱ表現論/表現へ! つづく・・・)

2013年07月14日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-98-

長田弘も触れたように、三木卓の次の言葉について、私はどうしても固執せざるを得ないことは確かなのだ。

  「この数年復活して来て消えた芸術の政治主義的傾向に対してぼくは批判的だったが、その底で感じていたことは、芸術の本質的部分をかたちづくるものとしての<芸>をかれらが理解しないし持とうとしない、ということに尽きる。」

いま、人間にとって言語表現とは何かということが、私の頭から離れないでいる。そして、同時に言語表現が私のものである表現論(=私的表現考)のなかで、どのような規範と位置を持つかという問いに連なっていくのだろうと思う。

人間にとって言語とは果して何なのかという問いかけを、言語学や哲学、あるいは心理学や生理学にまかせておいてよいのだろうか。かつての吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』ではないが、詩人が、言語そのものへと接近していく必要があるのだと私は思う。それは単に自己の詩に触れるという様相ではなくて、人間のものとして、第三者の表現としてあり得べき言語の存在に、もっともっと敏感になるべきだと思うのだ。

(Ⅱ表現論/言葉・言葉・根拠 終)

2013年06月21日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-97-

だが、このとき三木卓がこのような詩を書きえた状況とは何なのか。

三木卓は述べている。「何故か、言葉に頼るようにして生きている」

だとすれば、言葉を“表現”の縦軸にいともやすやすと乗せてしまうのが三木卓の詩であるように思えてならない。

 「晦冥とでもいったらいいような中に何時もいて、一行書きとめると、もうすこし見えるかもしれない、と思った」

この言葉の意味は、私にはよくわかる気がするのだ。しかし、私には三木卓が何故ことさらにイメージを浮きたたせ、イメージのみを拡散させていく詩法しか持ち得ないのかが理解できないでいる。それはすなわち、三木卓の詩が理解できないというのにも通じることかもしれない。

三木卓は、自分で述べているような「弱い人間」ではないはずである。「弱い人間」という言葉は、概念的に人間を把握する言葉ではない。もしそのような概念があるとすればそれは生き方そのものに由来するものなのである。個人の壮絶な生き方自身の中にあるべきものである。

私は三木卓の詩集を読みながら、表現の根拠として、私が考えつつある、遠い予感のことを同時に考えているのだ。

それは、三木卓が童話とか、小説とかに言語表現の可能性のいくつかを見出すという方位とはまったく異った地平でしか、私が言葉というものをとらえられないということにもよるだろう。
(Ⅱ表現論/言葉・言葉・根拠 つづく・・・)

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