成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2013年07月14日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-98-
長田弘も触れたように、三木卓の次の言葉について、私はどうしても固執せざるを得ないことは確かなのだ。
「この数年復活して来て消えた芸術の政治主義的傾向に対してぼくは批判的だったが、その底で感じていたことは、芸術の本質的部分をかたちづくるものとしての<芸>をかれらが理解しないし持とうとしない、ということに尽きる。」
いま、人間にとって言語表現とは何かということが、私の頭から離れないでいる。そして、同時に言語表現が私のものである表現論(=私的表現考)のなかで、どのような規範と位置を持つかという問いに連なっていくのだろうと思う。
人間にとって言語とは果して何なのかという問いかけを、言語学や哲学、あるいは心理学や生理学にまかせておいてよいのだろうか。かつての吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』ではないが、詩人が、言語そのものへと接近していく必要があるのだと私は思う。それは単に自己の詩に触れるという様相ではなくて、人間のものとして、第三者の表現としてあり得べき言語の存在に、もっともっと敏感になるべきだと思うのだ。
(Ⅱ表現論/言葉・言葉・根拠 終)
2013年06月21日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-97-
だが、このとき三木卓がこのような詩を書きえた状況とは何なのか。
三木卓は述べている。「何故か、言葉に頼るようにして生きている」
だとすれば、言葉を“表現”の縦軸にいともやすやすと乗せてしまうのが三木卓の詩であるように思えてならない。
「晦冥とでもいったらいいような中に何時もいて、一行書きとめると、もうすこし見えるかもしれない、と思った」
この言葉の意味は、私にはよくわかる気がするのだ。しかし、私には三木卓が何故ことさらにイメージを浮きたたせ、イメージのみを拡散させていく詩法しか持ち得ないのかが理解できないでいる。それはすなわち、三木卓の詩が理解できないというのにも通じることかもしれない。
三木卓は、自分で述べているような「弱い人間」ではないはずである。「弱い人間」という言葉は、概念的に人間を把握する言葉ではない。もしそのような概念があるとすればそれは生き方そのものに由来するものなのである。個人の壮絶な生き方自身の中にあるべきものである。
私は三木卓の詩集を読みながら、表現の根拠として、私が考えつつある、遠い予感のことを同時に考えているのだ。
それは、三木卓が童話とか、小説とかに言語表現の可能性のいくつかを見出すという方位とはまったく異った地平でしか、私が言葉というものをとらえられないということにもよるだろう。
(Ⅱ表現論/言葉・言葉・根拠 つづく・・・)
2013年05月12日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-96-
言葉・言葉・根拠
いま私の手もとには三木卓の最近の詩集『子宮』がある。いまここで三木卓のことについて触れるのは、ほとんど私の思いつきである。
三木卓にとっての表現の由来というものを私が考えるとき、それは同時に私の詩の由来を明らかにすることである。私は三木卓の詩をそのようなものとして読むしかない。
詩の困難な時代に、詩の一つの確実なありかたは、詩そのものが固定したイメージをもち得ないことである。幾重にも幾重にも拡散した意識の変転を、状況として読者の意識へと提示することである。詩は、そのような状況=内=意識を対象として成立する。
いま、詩が生きのこることが出来るかどうかということは、(流通の問題とは、またはるかにへだたったところで)詩がいかにこの意味で、内部にくいこむエネルギーに満ちているかによっているといってもよいのだと私は思う。
ところで、三木卓の詩は生きのこることができるのか。
都市の地平はひろがり
夕焼け雲づたいに ゆっくりと
死者を積んだ荷車を挽いて 馬は進む
おれは 暗いテーブルにつき
塩を塗った肉と玉葱の輪切りを食う
惨劇があり 日は堕ち 一つの時代は終る
おれたちは癒されない 巨大な
鋏の刃のあいだで まどろむだけだ
古い舞曲のオルゴールが鳴り
こどもたちは光り輝く しかし
めぐり来る夏の終りには だれも
口を噤んで衰えていくものを みつめているのだ
都市に白い霧がわきあがる
おれたちは 酒を飲み はなむぐりをからかい
痛みについて 少しだけ考えてから
真紅の焰につつまれて 闇に陥ちていく
そして 一杯の水のために目覚める 夜半
盲いた馬が かたむいているのを見る
(「馬」)
詩集『子宮』は、一九六九年後半から一九七二年の間に書かれたという。
私にとって、この時代はまったく偶然ではなく、激しい寓意に満ちた時代であった。何事も、私の緘黙とか私の生き方とかも、正確に一九六九年から一九七二年という時期を無視して語ることはできないでいる。
(Ⅱ表現論/言葉・言葉・根拠 つづく・・・)
2013年04月28日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-95-
この詩の内に激しい断言として唄われている、かわいた≪やさしさ≫の由来は歴然としていると言えるだろう。
石原吉郎の場合、自己の表現が既成の流通機構を解体する潜在的意志を持ちながら、しかし現実には流通機構こそが石原吉郎という人間の存在をおびやかしている悲劇がある。石原吉郎の表現行為をめぐるこの内部の葛藤が、石原吉郎の自己を解体していく過程を、私は実に想定せずにはいられないのだ。石原吉郎の表現行為は、とりわけそのノートなどという意味では、出版されてはいけないのだ!!
私は、弱いものは永久に弱いものであって強いものにはなり得ないといった意味の、石原吉郎がかつて発した完璧な比喩のことを忘れないのである。現在の流通機構によって詩人の表現行為は決して贖罪されはしないのだ。
流通機構によって拡散されるのは、詩の風景だけである。風景が巨大になればなるほど個々の人間の内部の状況は欠落していくことは明らかである。そしていま、流通機構は巨大な詩人の管理場と化しつつある。そしてそれは表現にとっての墓場である。
ルネ・シャールは語った。
「宙に浮いた、まるで雪に蔽われたような、いくつかの死などは持たぬこと。たった一つの死しか持たぬことだ、よき砂に埋まる死を。そしてよみがえりのない。」
詩を現在の流通機構から解放するために、詩人が背負わなければならないであろう原罪の重量など実は微々たるものである。解体を目指して運動をおし進めていくとき、その主体の側ではついに勝利することが完結なのではないことを、幾度目かの苦い経験のうちから私達は知り得ている。おびただしく負け続けること、みじめにたたきつけられることこそが私達の強固な内実を完成させていくことだろう。私達は、かたくなになり、誠実になり、それに見合うだけ、人間の≪やさしさ≫に敏感になっていくだろう。
この流通機構のどこに、私達の見果てぬ夢があるのだろうか。
「イマージュが原像に対して二次的であることをやめる世界、欺瞞が真実と称し、要するにもはやオリジナルはなくて、迂路と回帰の光輝のうちに、起源の不在がそこにおいて四散する永遠なかがめきがある。そんな世界」
(ブランショ『神々の笑い』)
だが、ここで一体この「論考」は誰のものか。そしてどこにいくのか。
(Ⅱ表現論/流通機構論ノート 終)
2013年04月10日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-94-
このとき、例えば詩人であるか否か、という問いかけのみじめさは、ほとんど絶望的でさえあるだろう。
詩的表現のもつ≪やさしさ≫の強度の凝縮は石原吉郎の最近の作品「懲罰論」にみることができるのだろう。石原吉郎と詩の流通機構の問題は、私の中にまだ追究すべきものとして雑多に含みこまれているものであって、その意味で私にとって石原吉郎は正確には、未完の≪やさしさ≫と言わねばならない。
懲罰は われらに
固有なものではない
あきらかに 理由が
われらへなだれるときも
懲罰はすべての
首すじへかかわるのだ
たとえば
懲罰の理由として きみは
ドアをひらく
どのような手つづきで
開かれるにせよ ドアは
すべての人のためにある
たとえば きみは
一つの空席を示す
だがひとつの空席が
すべての理由をみたすことは
けっしてないのだ
ありあまる理由があって
われらはあふれて終り
しずかに堤防を
ひたしはじめるならば
懲罰は もはや
われらに固有なものではない
(Ⅱ表現論/流通機構論ノート つづく・・・)