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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2011年07月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-63-

 私自身が痛恨こめて苦々しく思い出すことがある。私が雑誌『詩学』に連載中のエッセー「私的表現考」のなかで触れた、一人の若い女性Fさんのことである。Fさんは、手足の硬直発作を突然に(現実には、状況的に規定されるなかで)ひきおこすことを症状とした(Conversion Hysterie)の典型であった。私とそう長くはない<精神療法>の過程のなかで、症状はまったく消失し、それに呼応すべき、開示化された人間的生存の様式が芽生えはじめたのだと私は思った。私の個人的な必要性もあり(「私的表現考」にその間の事情は述べたが)その時点で、私と彼女との<精神療法>は終った。その后、私は彼女との接触を持つことはできなかった。しかし、最近、私は彼女が、再び激しく身体の硬直発作をおこしはじめ、ついには、東京郊外のある精神病院に入院したこと、現に入院していることを知ったのだった。私が、苦々しく思うのは、決して、彼女の症状の再発の問題ではない。そうではなくて、彼女がその硬直症状をおこすたびに彼女をとりまく内的・外的な抑圧のなかで、彼女が次第に“精神病”の範疇のなかに埋没していってしまうという事実なのだ。大学病院神経科病棟⇒精神病院という現実の過程は、その間をみごとに象徴した図式であるにちがいない。
 このような状況的な渦とはまた別に、やはり私が激しく考えざるを得ないのは、彼女もまた、「病人にならなければ生きていけない」と自己にレッテルをはってしまった人間なのである。
 「病人としてしか生きていけない人間」と言い換えてもいい、しかし、実際は内的世界に於いて、受動的にその生き方を選ばざるを得なかった人間というのではなく、はるかに能動的に、そのレッテルを選びとった人間だということを理解しなくてはならないのだ。
 朔太郎の「詩人としてしか生きていけない人間」についての分析とは、直接には関係のないことを述べたのは、私自身の心情からの要請である。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

2011年07月14日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-62-

 この話は、朔太郎の創作であるということだが、そんなことはともかく、ここには自分の心的世界を軸として、日常から出来る限り遠くへ飛ぼうとした人間のみが共有できる“現象”が描き出されている。朔太郎もまた自己の日常から、遠く遠く飛ぼうとした人間の一人だったのである。
私は、朔太郎の内的世界の構造的根拠を、詩人としての自我同一性への固着という観点から論じてきた。そこで、その構造の心的ダイナックスの原点を、<朔太郎=母>体験としてとらえてきた。ここで、そのことの意味をより詳しく読みとることにしたい。
 今まで述べてきたように、自我同一性への固着という現象は、私達にとってきわめて重大な問題として提供されているものなのであって、単に所謂、精神分析学に於ける一つのキイワードであるにとどまらず、人間学的にも重大な課題を含んでいるといえるのである。
 自己の<詩人>という概念規定のなかでしか、まず原初的に詩人として名乗れない生き方、そして、すべての自分の行き方、すなわち、あらゆる行動の非常識性、非凡性、そして感性の異常性を、<詩人>としての自我同一性のなかで許容し、拡散させていこうとする生き方、それらすべての免罪符として、<詩人>という自我同一性が存在するとき、それはすでに、この<詩人>という自我同一性が、一つのレッテル(Labeling)として朔太郎の生涯を彩っていったのである。
 このとき私達が遭遇するあらゆる精神障害が、その原因論をひとまずアポケーするとすれば、すべてのレッテルはりの構造は内在的に保持するということを思うべきである。
 レッテルは、第三者から規定される場合(Stigma)もあり得るし、自己自身によって自己を規定してしまうこともあり得る。そして、何よりも現象として重大なのは、外的な要因とは直接には結びつかない内的な経験として自己自身をそのはるかなレッテルのなかに非開示的に追い込んでしまうことなのである。(Labeling Theory)
 そして、この自己自身を呪縛するレッテルはきわめて強固なものであることが認められるのだ。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

2011年06月25日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-61-

 朔太郎の詩は、彼のアフォリズムのように理性的な眼鏡をとおしていないだけ、偽りのない心情の直接的な反映としてある。しかし、朔太郎自身が心的な現象に対して非常に鋭い嗅覚をもっていたことは、彼の表現のすみずみからもうかがうことはできるのである。

『絶望の逃走』のなかで朔太郎は次のように表現し得ている。

「或る瘋癲病院の部屋の中で、終日椅子の上に坐り、為すこともなく、毎日時計の指針を凝視して居る男が居た。おそらく世界中で最も、退屈な、時を持て余して居る人間が此処に居ると私は思った。ところが反対であり、院長は次のやうに話してくれた。『この不幸な人は、人生を不断の活動と考へて居るのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考え、ああして毎日、時計をみつめて居るのです。何か話しかけてご覧なさい。岐度腹立たしげに怒鳴るでしょう。黙れ! いま貴重な一秒時が過ぎ去って行く。Time is life!Time is life!と』。」(「時計を見る狂人」)

(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

2011年06月03日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-60-

 朔太郎にとっても、表現とのかかわりは次第に自分自身の心的状態の記録という形態をとりつつあったことは充分に自覚されていたことであった。朔太郎が『氷島』をどのような意図で書き綴ったのかは、現在では無論実証的推論の域を出ない訳だけれども、そこに私は朔太郎がつきつめていった表現方法の一つの帰結を見る思いがするのだ。朔太郎は充分に孤独であり、その運命はまさに自分以外の誰にも伝えようもなかったはずなのだ。
 そして、その孤独な表現が、現在の私達のひとりひとりを、自己の背負いこんだ状況とのかかわりという衣をきせたまま確実に引き裂くのである。
 『氷島』のなかの列車が突きすすむ闇の果ては、人間の意識のなかの最も寂しい場所であったように私には思われる。そこでは誰もが原初的な不安におののきながら、自己の来歴を執拗に問い続けているのである。

  わが故郷に帰れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽笛は闇に吠え叫び
  火焔は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。
  夜汽車の仄暗き車燈の影に
  母なき子供等は眠り泣き
  ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
  嗚呼また都を逃れ来て
  何所の家郷に行かむとするぞ。
  過去は寂寥の谷に連なり
  未来は絶望の岸に向へり。
  砂礫のごとき人生かな!
  われ既に勇気おとろへ
  暗憺として長なへに生きるに倦みたり。
          (「帰郷」)
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

2011年05月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-59-

例えば、状況からおびただしい関与をうけながら、しかもなお自己を極限にまで内向させようとする詩人の一人である清水えいは述べている。
 「朔太郎の底なしの不安は、青年期において爆発的にイメージを増殖し、壮年期においては逆に生理の衰退と共に作品が衰退していくのである。『氷島』における無惨といえるまでの人生詩には、青年期の異常で病的な美しさは影をひそめ、ただ言葉の形骸をなぞりながらの、かろうじて唄っている朔太郎の老いた姿があるだけだ。『氷島』を指して保田与重郎は『日本近代の慟哭』といったが、生理に宿ったが故の無惨な敗北でしかなく、時代認識の欠落がもたらした結果、朔太郎の作品は行き場を失っての慟哭どころか、すすり泣きにしか過ぎなかったのだ。」(「すすり泣きの朔太郎」)
 そして、一方では、吉増剛造は次のように述べるのだ。
「『月に吠える』『青猫』があってはじめて、あの悲愴な『氷島』が生きてくるのは勿論だが、朔太郎の作品系列を『氷島』を処女作に逆にならべかえてみると、朔太郎が感じていたであろう自責と無念さ、そして朔太郎をとりまく小天地がその狂暴な貌をあらわすようである。しかもそのことは朔太郎自身によって「『氷島』の詩語について」のなかに語りつくされているとおもう。『氷島』のポエジーしている精神は、実に「絶叫」という言葉の内容に尽されていた。」(「氷島・下北沢」)
 このようなRip-offは現象学的な方向性をもった表現というものは、単純に作者・表現者のものとしてあるのではなく、その詩・表現に接する、読者としての詩人の内的な意識の諸層のなかで、はじめて、一定の、そして豊かな方向性をもったものとして定着されるのだということをよくあらわしている。
 それは、単に想像力とか、創造力とかの範疇を超えた問題であり、個人の状況的(外的)関係と、内的な抑圧との間に懸垂した宿命的な人間個人の生きざまの世界からの投影であるはずである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

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