ホーム >> 墨岡通信(最新の記事を表示 : 39ページ目)

墨岡通信

成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。

2009年05月24日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-32-

粕谷栄市は続けている。


「『父と子』の子は、そこで、即時に、父を超える存在となる。彼は、いわば、『永遠の子である世界』に到着したのだ。子は、そして、母を併せ持っている。夫に絶望した妻からの投射。父の男に対する母の女の血。」


粒来哲蔵はこうした家族関係の内で、子供であると同時に父であり、また時に母親の抑圧からの転移の対象でなくてはならなかった。だから、粒来哲蔵の詩が、「常に内包する対象に対して持つ一定の距離」というのは、まさに超自我の欠落の表現であると言えないだろうか。


このように、粒来哲蔵の意識は、一方では父親からの自己破壊型人生に関する動機付けを受けており、その対極に、父親像=家庭内規範=超自我の欠落を見ている。それが現実に、彼の表現の中核に据え置かれていると述べた粒来哲蔵の≪自己攻撃≫を強く規定しているであろうことは想像に難くない。


例えば、粒来哲蔵の第一集『虚像』は、彼の母に捧げられていた。また作品「遺産」の中で父と母は次のように表現されている。


「母が私に強いるものを母は父から秘かに期待しているのではなかろうか? と。私は、私にこの苦役を強いる母の姿がドアの向こうに極めてひよわに見えることに驚歎したのだ。この母は、ついぞ見かけたことがない。母は或る意味では白く、肥ってさえおり、気ぜわしげに妙なしなをつくっている……。その時、駝鳥は突然私に襲いかかったのだ。私は頭をこ突かれ、一瞬の間に血まみれになった、とみると早くも駝鳥は母の居間にかけ上った。私は見た、その時の痴れたような母の笑顔を――。」


一見して明らかなように、この詩の素材としてあるのはエディプス葛藤そのものである。そして精神力動的にはエディプス葛藤は単独で存在するよりも、超自我の形成不全、自己処罰欲求などと共にあることが普通なのである。粒来哲蔵の内部意識を解釈する鍵もまたここにあるように思えてならない。
(Ⅰ詩人論/我が粒来哲蔵論つづく…)

2009年05月17日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-31-

サルトルは彼の自伝的叙述の中で述べている。


「良い父親というものは存在しない。それは一般法則である。だからといって男たちを非難してはならない。非難されるべきは、腐ってじめじめした父と子の絆なのである。子どもを創る、そのことには非のうちどころがない。子どもを持つこと、ああ、それはなんと間違った行為だろう。もし私の父が生きていたら、彼は私の上に長々と寝そべり、私を圧し潰していただろう。運よく彼は夭逝した。(中略。)


しかし私は、ある秀れた精神分析学者の診断を喜んで承認する。つまり私は≪超自我≫を持っていないのだ。」(『言葉』)


だから、私は粒来哲蔵の家族の体験に固執しようとするのだ。粒来哲蔵を論じるとき、たとえそれが如何なる形であろうとも誰かが、彼の父と、彼の生いたちについて触れることがなくてはならないと私は思う。


幼年期を、粒来哲蔵と共に過すことが多かった粕谷栄市はかつて、次のように書いていた。


「彼の父は、世に謂う呑んだくれであった。非凡な才能と勤勉で、若くして成就したその人は、飲酒とそれに附随する悪徳で、彼自身の生涯を瓦解させ続けた。


その瓦解と流浪の過程が、そのまま、彼の成育の環境だった。夫に絶望した彼の母は、虚弱であるが、抜群の学業成績をもつ、一人子に、一切の回復を賭ける。個人の家庭のこの崩壊に、さらに、戦争という社会の崩壊が重った。」(「復権孤島への旅」)


粒来哲蔵にとって父親は二重の意味で桎梏であった。一つには、確実に粒来哲蔵は彼の父から破滅することによって生きていく人間の姿を教えられたことによって、もう一つは父と子、母と子、父と母という家族内力動のなかで遂に粒来哲蔵の超自我が破綻していくということにおいて。
(Ⅰ詩人論/我が粒来哲蔵論つづく…)

2009年05月15日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-30-

私を焼くには、はじめに私のてのひらをひらかせる男が貸しあたえてくれるであろう蝋燭の火がもちいられる。私は手のなかで、それをこわさぬように注意ぶかく握りしめながら、てのひらが焦げ、指骨がじゅずつなぎに地におちるのを見ているのだ。


もちろんそのときは、あらたな火種が私の足もとの薪の束になげられて、炎は私の脛毛をいぶしている。けれども、私は、蠟燭をともしつづけるという彼との黙契に気をそがれ、わめき、ころがることもやめ、おどおどしながら燃えていくのだ。」(「刑」)


私は想像するのだ。粒来哲蔵の詩の根拠こそ、実は≪自己破壊への意志 ≫であり、≪自己攻撃≫なのではないか。


意識の「劇」において主役であるべき「私」は、常に崩壊の危期に瀕している。そして「私」を崩壊させるのは、その≪状況≫を創り出した詩人自身の手によってである。


「私が醜い女をめとったのは、私自身が私を蔑むためだった。彼女の顔を日毎に見、その都度、私は私に嗤われて然るべきだった。気の利かない粉飾と虚構。しぼんだ烏瓜ほどのこう丸を提げて、さて一体私に何ができただろう、私自身を蔑むことのほかには。私は愛を語り合うとき、髪に尿を塗りこんだ。私は肉をひさぎあう時、四肢に糞を塗りつけた。けれども、私に何ができただろう。私の行為を嘲り、私の知覚の稚なさに鼻をつまむこと以外には――。」(「贋ユダ記」)


だから、粒来哲蔵の表現の随所に存在するこの≪自己攻撃≫の由来は何か、という設問は粒来哲蔵を論じる上で非常に興味深いことなのだ。


例えばここで古典的な精神分析理論を採用すれば、≪自己攻撃≫型の人格の背景では、所謂超自我の形成が不完全であることが指摘され、その心的現象のダイナミックスにおいて、これは父ないしその代理者に対する同一化の障害に基づくと解釈されるだろう。


しかし、一方ではボールビイは母親との早期の分離あるいは母性遮断の影響をより一層重視しているし、グライジャー一派はこれに対し父子――、母子――、父母関係の三つの関係のいってみれば弁証法的力動的関連の総合的観察が必要であることを強調している。しかしいずれにしろ、家族関係の分析がこの問題を解く鍵であることに相違はない。
(Ⅰ詩人論/我が粒来哲蔵論つづく…)

2009年05月13日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-29-

「一つの動作のもつ意味合い、一個のことばのもつ意味性は夫々一個に限定されるものではないことは勿論、それは無限の拡大が約束されるものだ。寓話は意味の限定を嫌い、その可能性の無限に賭ける。幻想の劇の寓意は主役たるべき『私』の無数の再生を可能にさせるが、さて『私』の崩壊がはじまったとき私の詩は担うべき課題を担うに違いない。」(同前)


粒来哲蔵の詩の中核に据え置かれているものは表現への意志であると私は書いた。それではこの表現への意志は粒来哲蔵の内部でどんな構造を持っているのか。「劇」の主役であるべき「私」、崩壊を予期した「私」とは一体何なのだろうか。この問題を抜きにして私には粒来哲蔵を語ることは出来ない。否、私には、このことが脳裏にこびりついて離れ難いのだ。


「私の肩には古風な銃が掟のようにのっている。この引鉄をひくことは容易ではなかろう。第一私はこの銃を好いていない。これを私に遺したのは私の祖父である。祖父はこの銃で妻を撃ち自らも死んだ。以来白い標的は絶えず私の目の前に動いてる。それは季節外れのダリアであり、私の母の淫らな頸である。」(「射程」)


粒来哲蔵の詩に色濃く影を落しているのは、単なる詩人の内部意識の表象といったものではない。粒来哲蔵の詩の一見して強固な構造の中核に存在して、その詩の解釈の多様性の深い根拠をなしているのは、まぎれもなく或る無意識的な抑圧である。


私には、粒来哲蔵自身が逃れようとしても逃れられない現象学的体験の存在が、脆くも粒来哲蔵という人間を詩人として宙空にピンでとめているのだと思われてならない。
それでは、粒来哲蔵の激しい表現への希求をささえているものは何か。
(Ⅰ詩人論/我が粒来哲蔵論つづく…)

2009年04月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-28-

我が粒来哲蔵論


――詩人の内部意識


粒来哲蔵の表現を論じることはむずかしい。何故なら、粒来哲蔵の表現にはきわだった統一的イメージなどどこにも存在しないからである。粒来哲蔵の表現では、イメージは無限に拡散していってしまうか、鋭く個人の胸に突きささったまま深く深く人間をその一語にかかずらわせてしまうか、そのどちらかである。


このことは、粒来哲蔵の表現が多くの散文詩がそうであるようにイメージを造形の中核に据えているのではないということを語っている。粒来哲蔵の表現の中核に据えられているものは、一つの巨大な意志である。表現への意志であると私は考えている。粒来哲蔵にとって本質的に重要なものはこの表現への切実な意志しかない。


だから、粒来哲蔵の書く散文詩は単に≪詩≫であるよりも、むしろ或る≪状況≫の創出であって、日常の中に厳しく投げ込まれた≪状況≫の切断面そのものである。


粒来哲蔵は述べている。


「ことばのもつ記述性の効率を高めるための散文詩形は饒舌が生み出したものではなく、日頃口ごもっている人間が劇の中を足速にかけまわる時の息づかいのような、継続する荒々しさと、微熱と亢奮が生み出したものだ。」(「わたしの詩法」)


粒来哲蔵が詩的位相を「劇」と語るのは非常に興味ある事柄である。何故なら、劇こそは最も鋭く≪状況≫を創出するものなのだから。しかも粒来哲蔵の「劇」は表象としての劇である。あらゆる時、あらゆる空間を占拠し得る、至るところの劇である。


だから、粒来哲蔵の詩の中でイメージは遂に造形として存在しない。現代におけるいくつかの表現手段がそうであるように、粒来哲蔵の詩も、表現への強烈な欲求にささえられて無限の読者の意識の内へ際限もなく浸潤してゆくのだ。そのとき、定着し、評価され、完成する≪詩≫など、どこにもありはしないのだ。
(Ⅰ詩人論/我が粒来哲蔵論つづく…)

新しい記事を読む 過去の記事を読む

ページのトップへ