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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2009年03月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-24-

私は今、もう10年も前に大岡信が山本太郎について述べた言葉を思ってみる。


「それは、一見不思議に思えるかもしれないが、猛烈に内閉的な主観性の文学なのである。かれはこの内閉的な世界の中で、巨大なオランウータンあるいはゴリラに変貌しながら暗い原始の生命への尽きることない賛歌を唄いつづける。」
山本太郎の詩のすさまじい生命力のなかにどうしても消せずにある悲哀感についてこの言葉は真実であるだろうと私は思う。
しかしこの『死法』をとりまく言葉の息苦しさ、重苦しさは一体何故なのだろうか。


見附の空に夕焼はひろがり
秋風が破線を描いて頭上をすぎた
オレノソトニ敵ナドイナイ
その一行を噛みしめて
20数年生きてきた俺が
いまさらどう間違えて
こんなうそ寒い屋上に立っているのだ
遠くで学生達のシュプレヒコールがきこえる
たのしげに怒るものら
去れ


山本太郎の詩はいつからか実に脆くなりながら、その表現を支える豊かな内面世界の故に、逆に詩人を荒涼とした原野に抛り出してしまったように私には思える。


私はそこに、今日の詩の一つの原点をみる。原点としての詩人の生き方をみる。


状況から最も遠いところにいるものが最も状況的であるなどというのではなく、既に私達の生は状況によって踏絵にされているのだ。詩が裁かれているということは、人間が表現として持つ詩が、現代のなかで強靭な存在論を要求されていることだろう。


時代の様相というとき、私にはさまざまな個人の生きざま、死にざまが具体的に浮んでくる。否、それ以外に時代の様相などというものがあろうはずはないと私は思う。時代の困難さと私は言うけれども、それは現に困難に生きている人間がいるからである。


だからそれは、またひとつ忘れさられていく人間の表現の過去を横切って、旅に出るということではない。居残って、居直って苦しく暮らしていく者もいるのだということだと思う。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

2009年03月18日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-23-

詩集『ゴリラ』は昭和35年(1960年)の時代の寓意ではあり得ない。それは現在もなお進行中の内的な出来事の出発である。私も常に、いつの日も私以外の何ものでもないように生きている。状況はいくらでも変化する。時代は悪くなる。だが、それにもかかわらず、山本太郎はこのようにしか生きられない。それが、私達の大きな救いである。



私的『死法』考


「敵はきみたちを恐れている。きみたちはそのことを裏切ってはならない。」
と、ルネ・シャールは書きとどめた。
「敵を恐れるな――やつらは君を殺すのが関の山だ。
友を恐れるな――やつらは君を裏切るのが関の山だ。
無関心なひとびとを恐れよ――やつらは殺しも裏切りもしない。だが、やつらの沈黙という承認があればこそこの世に虐殺と裏切りが横行するのだ。」


と、石原吉郎はヤセンスキーの語句を自己のノートに記している。
だが、『死法』の中で山本太郎は書いている。


斃すものと斃される奴
とおまえはいうが
抒情的な怒りなど
信ずるに足りぬ
対立という観念は
ほんらい脆弱なものだ
おまえはいったい
だれにむかって敵なのか
まっすぐやってくるものとだけ
確実に出合うと
ほんきで信じているのか   (「敵に関するエスキース」)


言語の階級性などという苦々しい措定をはっきりと突き破ってしまう詩人の生きざまについて想いをはせても、なおかつ山本太郎のこの屈折した表現の行き方は私をとらえてはなさない。


死を法則に変える将軍の習性と
敵だけがおまえの生を
証明するという
演劇的な思想も
ことのついでに拒否するがいい
………………
斃れるのがおまえであろうと
おまえの前に立つ一人の兵士であろうと
孤立無援の背中で
敵を背面に感じた二人が
怒りを
祖国や将軍に照準する勇気を
もちえなければ
死者よりも深い腐敗が
おまえに訪れるのだ


『死法』は、その表面の多産性にもかかわらず実に息苦しい詩集である。ここには、山本太郎という詩人が、目に見えぬ巨大な機構に対峙したまま次第に言葉を失っていく過程が壮大に記されているのだ。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

2009年03月15日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-22-

廃虚とゴリラ。詩人とゴリラ。このゴリラはアフリカのゴリラでもなければ原始のゴリラでもない。山本太郎の他のどの詩にも描き出されたことのない苦悩と、不安感がここには色濃く存在している。山本太郎が実体として自我の一体感を求めながら、しかもその自我を支える<自己愛>の分裂を予感しなければならなかったとき、既に魂の寄りどころなどどこにも存在しはしないのである。


<詩人・男>と、<狂女・女>との出会いがある。例えばこの時、人間の出会いとは何なのか。こうした設問はここでは意味がない。ここには幻想的一体感を喪失した人間の深い唄があるだけである。


M・ボスは述べている。


「現存在分析の観点からみれば、彼のものであり、それでもって彼が委託される生きることの諸可能性を、彼自身の上に責任をもって引きうける意味で、彼自身であることに決して開いたことのない……」(Peychoanalysis and daseinanalysis)


山本太郎は心的に深い傷を背負っている詩人である。そして、この傷は<自己愛>を軸として喪失体験を想像させるのだ。山本太郎が営むすべての行為、その桁はずれた開放性、生存への熱烈な希求、そして垣間見せる寂しさ、これらのものは総じて山本太郎を詩人として支えている巨大な内的defenceの所在であり、表現への結び目である。多くのシュールレアリスト達が、かつてあどけない退行のなかにカーニバルの躁狂にも似た抑圧除去の方法を無意識的にとりいれていたことを私は思い出す。アンドレ・ブルトンはマッチをカリカリかじったし、リブモン・デセーニュはいつも「頭蓋の上に雨が降る」と言ってわめいたし、アラゴンは猫の鳴き声もまね、フィリップ・スウポオはツアラとかくれんぼをして遊びあっていた。


現在の私達がどうしても山本太郎の詩を避けて通れないのは、このような内的な深い傷を現実の世界へと投影する真摯なエネルギーに心底から出会いたいと願っているからである。山本太郎の詩も、山本太郎の表現も今後ますます困難なものになっていくだろうことを想いながら、私達は私達自身の表現について考えなければならないのだ。山本太郎の見果てぬ夢を、今度は私達が現実のものとして行かなければならない。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

2009年03月05日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-21-

「カラマーゾフの兄弟の中でイワンが『もし神が存在しなければ、すべてが許される』と言う時、彼は『もし投影された形での私の超自我が撤廃されうるとしたら、私はやましさを感ぜずにどんなこともできる』と言ったのではないのです。彼はこう言っているのです。『もし私の良心だけがあるのだとすれば、私の意志にとって究極的な正当性は全く存在しない』と。」(R・D・レイン『経験の政治学』)


この<自己愛>が崩れるとき、すなわち、山本太郎の意識の内側で、激しく一体であった実体感=存在が喪失するとき、山本太郎の硬直した表現は、詩の世界から現実の認識的世界へ至る遠い予感をこめて、一篇の仮空の構造を描き出す。描き出さないでいられない。



猿が「サル」という同類意識の内側で寸法にあった幸福を食べて育つ
それが革命であったのに
権力に従属しない権力者のいる世界
支配者も大衆もいない世界
みんなが生産者で
いきものの 失われた本能に還る世界



山本太郎の想像力が必然的に生み出したゴリラ王国は、「存在の悲しみ」から自我の崩壊をかろうじてくい止めるために、認識的対象にむけて自己の表現を企図しようとする内的な力動の産物であると仮定するのは誤りだろうか。山本太郎の内的なカセクシス(備給)の所在を私は明確に定めることができるように思うのだ。「おめえの名は カミ、逃げる標的」と記した山本太郎の息づかいがはっきり聞えてくる。


しかし、にもかかわらずこの長篇詩『ゴリラ』が激しい緊張よりも、深い虚無感と不安感によって支配されているのは、山本太郎自身が内的な現実そのものに気付いていないからである。


このような意識の関係についてR・Dレインは語っていた。


「現象学的には『内部』と『外部』という言葉はほとんど意味がありません。しかし、私たちが生きていることの全領域において、人間は言葉に支配される道具にすぎなくなっています。言葉は単に月をさす指のようなものにすぎないのです。今日こうした事がらについて語るのが難しい一つの理由は、内的現実の存在そのものが今や疑問視されているからです。」(同前)
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

2009年02月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-20-

私が現在かかわりあっている私達に於ける表現の問題の、最も中核となるべきものが、この存在と認識との接合の問題である。だから私のものとして山本太郎の詩を捉えようとするときここには単なる共鳴以上のものがある。主観の内部のものとしての存在が、状況の側のものとしての認識と、どのようにして一個人の生き方のうちで連結するのかという点、この一点に深くかかわるものとして表現の問題をとらえかえそうとするとき、『ゴリラ』は大きな示唆を与えてくれるものであった。


長篇詩『ゴリラ』は、山本太郎の表現のダイナミックスの第一の基本として存在している<自己愛(ナルシズム)>の最初の結晶であり、同時にその<自己愛>の分解を予期した作品である。それはあたかも、このたいへんなdefenceを背負った詩人の意識の象徴であるようである。


山本太郎が何回もくり返す「存在の悲しみ」とか、喪失した「神」とかいう言葉で、山本太郎がからくも支えてきた内的な状況とは一体何だったのだろうか。


恐らく山本太郎が「存在」と語るとき、その「存在」とは限りなく主観的・肉体的に自我意識と結びついた「私」に関する感覚である。



夢はネアンのトンネル
どこへもとどいていない穴
そこを堕ちる無数の肉片
おちるという意識だけが醒めていて


おおいつ受けとめる<手>がやってくる
毛むくじゃらの<手>はいつくるの



<自己愛>について語るとき、それはまず母性との関係を語ることである。母が私を愛するように、私は私を愛する。だから、<自己愛>とは母性を中心にし超自我形成の問題と不可分のものである。


それ故、山本太郎が「母の胎内で見た永遠の貌の怖しさ」と語りはじめるとき、山本太郎は既に、<自己愛>との幻想的一体感を喪失し、このときまぎれもなく「存在の悲しみ」について触れているのである。


私は思い出す。「穴(ザ・ホール)」について、ウィニコットは乳房をむさぼり吸うことによって無を創造することだと述べていた。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

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