ホーム >> 墨岡通信(最新の記事を表示 : 43ページ目)

墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2008年07月30日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-9-

スターリン死去にともなう特赦により、帰国した石原吉郎は「望郷と海」をこのようにしめくくる。だが現実には、石原吉郎の戦争は終っていなかった。「シベリヤ帰り」は、既に日本本土においても<棄民>でしかなかったのである。故国が<向う側>から迎えにくることによって終結するはずの「望郷」はついに、断ち切られたまま宙に浮いてしまう。職もなく、金もない。ラーゲリで石原吉郎が怒りと失意のなかで呟いたはずの「弦にかえる矢があってはならぬ。」ということを骨身から断言せざるを得ない状況であったであろう。石原吉郎の表現の始動が、「記憶の中にいっさいの倫理を置いて戦後の日本を生きようと決意」することにあったのも、あまりにも当然であった。石原吉郎が、失語について語るとき、現実に不在であったのは言葉そのものであったのではないということをこそ物語っているのだ。「自立」がその表現を求めて疼いているのだ。突きあげるような力動がそこには存在しているのだ。

私達は既にいかなる効果をも期待しない、と私は冒頭で述べた。私達は根拠を問われ続けているのだから。このとき、石原吉郎の『望郷と海』は豊かな内実を、持続する緊張に絡ませてまさしくこの場所に存在している。石原吉郎の表現には終りがない。輪郭もなければ希望もない。そこには無限に沈澱していく堅い意志があるだけである。そして、これが私達をとり囲んだ状況のすべてであると私は思う。
「少くともこのようなかしゃくない戦いが現に私達が生きている世界のなかでいとなまれているということ、そのような人たちが、私たちと時をおなじくしてこの地上に生きつづけていること、現に私たちがこうして希望をうしないつつある瞬間に、まさしくその人たちの希望のない戦いが、一歩の妥協もなく、執拗につづけられているということ、そのことこそ私たちの希望でなくてなんであろう。」
(「1959年から1962年までのノートから」)
石原吉郎の表現はしたたかである。(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書おわり)

2008年07月18日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -8-

ところで、埴谷雄高は書いたことがある。
「目の前に現存しないのに必ずそこに動いている巨大なもの、それは権力である。闇のなかから鉤がでてきて一人の男をつくりあげ消え去ったとすれば、それは権力が働いていたのである。そこには奥の見えぬ闇の恐怖がある。けれども、その遠い闇の奥には自己満足を感じているひとりの愚昧な政治家が坐っていて、そこには何者も天秤を動かし得ない不思議なバランスがとれているのである。」(埴谷雄高『幻視のなかの政治』)
政治権力が「奥の見えぬ闇の恐怖」だとするなら、意識の内部もやはり「奥の見えぬ闇の恐怖」に相違なく、対権力に関してそれは現実の武器にもなるはずである。石原吉郎の表現が私達にとって支えとなるのはこのことを豊かに示唆しているからに他ならない。
闘い、と呼びならわされる構造は潮のように引いてゆき、瓦解しつくしたのだろうか。見果てぬ夢として、対峙するバランスもなくすっぽりと、すべての証言を含んだまま埋葬されてしまったのだろうか。否、と私は考える。私達は歩を進めている、と思う。石原吉郎の表現と、それを受けとめる私達の位相の内に、それは物語られているのではないか。石原吉郎が語るのは意識の内なる<風>のことであり<海>のことである。そして、その吹きすさぶ<風>を私達の遠い道程に組み入れていく作業こそ私達のものであるべきなのだ。
「十二月一日夜、私は舞鶴へ入港した。そこまでが私にとって<過去>だったのだと、その後なんども私は思いかえした。戦争が終ったのだ。その事実を象徴するように、上陸二日目、収容所の一偶で復員式が行われた。昭和二十八年十二月二日、おくれて私は軍務を解かれた。」(「望郷と海」)(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書つづく・・・)

2008年06月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -7-

私達が模索のうちに目指そうとしている遠い地平に石原吉郎はあまりに早く入りこんでしまった。否、そうではなく私達が遅すぎたのかも知れない。
「政治には非常に関心がありますけれど、それははっきりした反政治的な姿勢からです。人間が告発する場合には、政治の場でしか告発できないと考えるから、告発を拒否するわけです。それともう一つ、集団を信じないという立場があります。集団にはつねに告発があるが、単独な人間には告発はありえないと私は考えます。」(「沈黙するための言葉」)
石原吉郎は実に寡黙に語る。思考と感性の最後の砦としての文体が、それ以上否定することのできない本質的な存在の様式を刻んでいく。だから、「望郷」も「海」も、自己の認識のなかにあるのではない。それは認識するものではなく、独自に存在するものである。石原吉郎の言葉は認識から発せられた言葉ではない。それはまさに存在から発せられた言葉以外のなにものでもない。だから、人間の最も認識的な所産である国家も、権力も、ここには至ってこない。あらゆる不条理を問いの力によって否定しつくしながら、最後まで否定しきれない人間的属性を軸にして、その所以を屹立させる存在の言葉である。
「幻想の言葉である。私が陸に近づきえぬとき、陸が、私に近づかなければならないはずであった。それが棄民されたものへの責任である。このとき以来、私にとって、外部とはすべて移動するものであり、私はただ私へ固定されるだけのものとなった。」(「望郷と海」)
厳しい外部的・認識的条件が重量を増す度に、徐々に石原吉郎の表現の核が<存在=“内部意識”>と意識の陥没を逆上昇していく過程は、まさに衝撃的である。ラーゲリで石原吉郎にとってかけがえのないものであった鹿野武一が取調者に対して発する最後の言葉、「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」は、だから二重の意味で激しい力を持っている。一つはいうまでもなく認識の場、ラーゲリの非人間的日常の場で発せられた人間の言葉として。もう一つは、認識の論理ではとうてい推し測ることのできない深淵、すなわち内部意識のあらゆる被表現性について述べられた言葉として。だからこそ、私達は今もなお、この言葉をめぐって被告席に立たされているのだ。
(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書つづく・・・)

2008年05月31日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -6-

「それは同時に、人間そのものへの関心、その関心の集約的な手段としての言葉を失って行く過程でもあった。密林のただなかにあるとき、私はあきらかに人間をまきぞえにした自然のなかにあった。作業現場への朝夕の行きかえり、私たちの行手に声もなく立ちふさがる樹木の群に、私はしばしば羨望の念をおぼえた。彼らは、忘れ去り、忘れ去られる自我なぞには、およそかかわりなく生きてきた。私が羨望したのは、まさにそのためであり、彼らが<自由である>ことのためでは毫もない。私がそのような心境に達したとき、望郷の想いはおのずと脱落した。」(「望郷と海」)
おそらくは、ここで触れられているのは人間の<表現>の問題だと私は思う。だからこそ、<表現>の彼方に「暴力に対する確固たる主体の定立」を見る内村剛介よりも、石原吉郎の方がはるかに遠くまで来てしまっていると私は考える。
ここ数年間に、私達は<表現>を抱き続けながら、<人間>のはるか彼方にむかって流されてしまったと私は感じている。無論、最初の作業は、<表現>を規定している状況そのものの分析と追及であった。そこではまだ<表現>は状況に“規定”されていた。
だがある時から私達は外在的には多くの誤謬と短絡とを犯しながら、うずもれていく多くの声々にせかされるようにして、<表現>は自立できるか、人間の核として<表現>を“規定”できるかという問いかけを投げかけざるを得なくなったのだ。そして、そのとき<表現>と、その流通機構そして権力との鋭い対立はより一層明確になったと言ってよい。私達は模索していた。
私は石原吉郎の“ノート”と記された言葉の数々に激しくうたれたことがある。そこには名状し難い強靱な思考と、圧し潰されるようにあえいでいる息苦しい自我のアンビヴァレンツが存在していたし、何よりも私が対峙しているのはただ単なる<ノートの作者>としての石原吉郎であるという安心感があった。私はそこでも表現の流通機構のことを考えたはずであった。
(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書つづく・・・)

2008年05月16日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -5-

石原吉郎がラーゲリについて語るとき、そして同時にほとんど石原吉郎がラーゲリのみについてしか語らないとき、私はそこに意識の内側から棄民の範疇をきわだたせ、自分以外の誰もが表現しきれない<いのちの核>を擁護せざるを得ないところに追い込まれた一人の男の姿を措定してみる。石原吉郎の言葉は告発でもなければ証言でもないが、それは本質的に状況の声であることに相違ない。
例えば、同じようにスターリン体制下のラーゲリでの経験を思考のバネとして<自立>への過程を歩まなければならなかったはずの内村剛介の場合、その遅々とした前進が確実に外部の標的に向って膨張していくのに対して石原吉郎の言葉は時代の影をいっそう背負って苦渋に満ちている。
私はここで、内村剛介がスターリン体制を「言葉で被覆した病める暴力」と形容したことを思い出している。そのあとで内村剛介は述べている。
「思えばわれわれは告発ばかりしてきた。そして、告発すなわち裁きであるといつの間にか思い込んでいる。冗談ではない。裁きは少なくとも暴力に対する確固たる主体の定立を前提としているのだ。」(内村剛介「『告発』と『裁き』」)
さらに、内村剛介は次のように書いたことがある。
「ほんとうに絶望した者は喋らない。書きもしない。いちど絶望した者が立ち直ってそれを書くということがもしあるとすれば、その人は書くまえにまずひどくややこしい時間を自分のものにしなければならぬ。さてそのようにして、曲りなりにも絶望をことばに移しえたと自らに語りきかせたとしても、その“絶望”はしょせんリテラチュア、つまり『書きもの』にすぎず、彼自身は一個無残な『物書き』なのである。彼は虚空の前に佇み、恥ずかしい思いをするだけである。誰に対して恥じ入るのか? それがわかるくらいなら恥じ入りはしない。そのさい彼にとってたしかなことは“絶望”というものとのかかわりあいはこのように絶望的であるということである。」(「表現の極点としてのことばの非在」)
石原吉郎もこのことは、はっきりと記している。そしてこうした意識の集積が、帰国後の石原吉郎の表現行為を色濃く規定していることも想定していいだろう。だが私は石原吉郎が次のように述べるのをみるとき、石原吉郎の表現の切っ先が横切っている地平は、何か一層苦しいものであるように思うのだ。
(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書つづく・・・)

新しい記事を読む 過去の記事を読む

ページのトップへ