成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2022年07月29日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-195
存在の問題を主観内部の問題としてとらえるということはむしろ当然の行為ですらあるが、レインはこの地点を一歩踏み込んで、状況と自我とのかかわりあいのなかに存在の論理学を持ち込もうとする。内部的存在の深さ、内部的宇宙の巨大さ、人間存在のはかり知れない広がり、こういった解釈を人間関係論として押し拡げていくとき、当然のことながら私達は心的現象の内部そのものとしての“疾患”ににつきあたる。自我心理学も、精神病理学も、まずはじめに欠落症状としての“疾患”によって規定されている以上、宿命的なことである。だが、レインは他の人間学的精神現象学の先駆者達と同じように、“疾患”という概念も、従って“治療”という概念も持とうとしない。そこにはただ状況によって規定された存在の問題が露呈されているだけであり、人間存在の根底は恐ろしく深いのである。
「私が今ここで分裂病という用語を使うときは、身体的であるよりはむしろ心的と想像されるような、なんらかの状態を指して言っているのではなく、また肺炎といったような、一つの病気を考えて言っているのでもないのです。そうではなく、この用語は、或る社会的状況下にあって、或る人が他の人々の上に貼りつけるレッテルだと私は考えています。『分裂病』の『原因』がもし見つけ出されるとしたら、それは将来分裂病と診断されるはずの人、その人だけの検索からではなく、そういう精神医学的儀式がそこで行われるような社会的脈絡全体を検索することによってであります。」(前同)
存在と認識の二元論、自我と状況の二元論、内部と外部との二元論、これを一気に短絡させ人間存在を全体として(as a whole)把握する論理学こそレインの試行の目的であった。だが、レインはこの作業のために決して無意識とか、純粋経験とかの微細な現象を問題とする訳ではなかった。これらの、微分的方法、或いは“水平の弁証法”(橋本克己)による解釈学にたよらないで、レインが用いた方法論はいわば積分的方法である。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)
2022年05月26日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-194
無論レインも、精神分析の流れをまともに受けることから出発した。しかし、レインは次第にクライン等への批判に傾き、自我心理学の構成そのものにも批判的になっていく、自我心理学の再検討、発達心理学批判、対象関係論の再検討、と精神分析の大きな支柱に次々と疑問をなげかけていくレインの作業は、クーパー等が述べるように「反精神医学」と呼ぶにふさわしい迫力に満ちていた。
「最も根源的に考えれば、人間はそこに存在しているものの発見にも生産にも、あるいはコミュニケーション、発明にさえも参与しておりません。人間は存在が非存在から湧出するのを可能にしているだけなのです。」(レイン『経験の政治学』)
レインが展開してみせる存在の論理学は、単に存在の問題だけを抽象してみるとき、ほとんど革命的なことは述べられていない。だが、レインはこのおそろしく公式的な命題を人間存在の中核的役割を持つ、意識の問題、自我の問題へと強引に直列してしまう。しかも、さらにこの激しい渦は人間の自我と状況との接点にまで及び、状況の論理さえも包み込んでしまおうとするのである。
「理論においても実践においても中心となるのは人間の間の関係です。人間は自分の経験と行動とを通してお互いに他者と関係づけられております。諸理論を、それが経験または行動にどれだけ重きをおいているかという点から、そしてまた、経験と行動との間の関係をどれだけ表現できるかという点から見ることができます。」(前同)
「社会科学研究の理論や記述において用いられる慣用的語句の多くは、一見したところ『客観的』中立性の立場にあるようにみえます。しかしこれがどれほど欺瞞的でありうるかは、私たちのすでに見たとおりです。構文を定め、語彙を選ぶことがすでに政治的行動であって、そのことによって、『事実』を体験するやり方が決定され限定されてしまうのです。」(前同)
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)
2022年03月29日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-193
「生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の<ナショナリズム>の核があるとすれば、これこれが、どのような政治人よりも重たく存在しているものと思想化に値する。ここに<自立>主義の基盤がある。」(吉本隆明『自立の思想的拠点』)
吉本隆明にとって幻想とは例えば次のように語られる。
「人間の本質的な意識作用、つまり意識作用が生活にまつわる念慮・配慮から離脱すればするほどそれだけいっそう意識の固有のはたらきが加速され、増殖肥大してゆかざるを得ないような意識の作用」(遠丸立『戦後文学キーノート・吉本隆明』)
こうして、吉本隆明が幻想の問題をつきつめようとしていくとき、その作業は表現行為論へと収束され、もう一方の極は意識の内部の問題、すなわち『心的現象論序説』へとむかう。表現論の内で、被表現者の論理として定着されていくものは、認識の論理から逸脱した存在の論理の声である。そして、『心的現象論序説』の内で吉本隆明が執拗に追求しようとする作業は存在と状況とのダイナミクスである。
何故、私達にとって存在の問題が重要であるのかは、このような状況の問題と不可分ではあり得ないのである。
そしてまた、例えばフロイト、ユング、ライヒ以後の精神分析的流れにあって、現在的意味での存在(主観=自我)の問題と、状況との問題とを臨床的にもある程度きわだったものとして規定してみせたのがエリクソンであった。だがエリクソンは自我同一性の概念と、自我拡散症候群と名付けた一連の状態とを、社会変動の力学に符合させて一元的に理解し得るという論理をおしひろげるなかで、あまりにやすやすと自我の壁を状況の図式化された在り様で突き破ってしまった。そこには、あまりにも個々のものとしての状況がなさすぎ、従って本来的に個々としての自我については、それまでの自我心理学の領域をほとんど出ることは出来なかった。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)
2022年01月19日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-192
このように論理を空転させながら、私達は否応もなく現実の状況に生き、状況と深く深くかかわらなくてはならなかった。現実が論理を超えてしまった地点で、私達は私達の生存を遂行していかなければならない。そのとき、状況はあらゆる人間の個人的な存在(=主観的境界)と鋭く対立しはじめたのである。
例えば我が国において、古くから政治と文学論争の渦中で明らかにされてきた政治的な立場は、一定の傾斜を持ちながら、迷える一匹のためには決して後の九十九匹を犠牲にすることはないという分離の思想として、明確ではあるが皮相な論理によって先どりされ、個人と組織の問題という大課題を経て、遂には転向者をめぐる論争として成熟したのである。折からのスターリニズム批判の嵐の中で、あまりに多くの雑音をくわえすぎたきらいはあるにしても、それは政治を人間存在の根本問題と対立するものとして定義するはっきりとした立場の前床となるものであった。吉本隆明、武井昭夫などはその前夜の唄とも言えるものであった。
吉本隆明はまず「戦後思想の荒廃」の叙述として、政治を幻想過程、経済活動を現実過程と規定しようとした。この時期の吉本隆明は上部構造と下部構造とを同質レベルでとらえようとする二元論の構図を持っていたことは確かであった。しかし、吉本隆明がその後『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論序説』へと突き進んでいくとき、幻想問題は次々とその外延を拡張させていく。幻想の対概念も“現実”ではなく、“生活”へと移っていく。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)
2021年12月21日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-191
私達はいま、何故存在の問題について固執しようとしているのか。
現代社会の、極端に認識的な論理の構造のなかに組み込まれてしまっている日常には、もはや真の意味での人間的深みは期待できないというただそれだけの理由で、存在の問題が提起されているのだろうか。
存在と認識の二元論的把握はデカルトの心身二元論以来の哲学の根本問題であった。この“存在”を「生への意志」と呼ぼうが「権力への意志」と呼ぼうが、「自我」と言いならわそうがその本質はかわらない。“存在”は、徹頭徹尾存在の論理学の範疇で“存在”とは何か、ということだけを問題とする。私にとって真の“存在”とは何か。私は何故ここに在るか。しかし、哲学の内で二元論は既に二元論以外の何ものでもなく、人間存在の中で、この二元論が突如として平衡状態を保つことの真の理解は誰からもなされなかった。存在は自我の内にあり、主観の内部のものであり、認識とは他者であること、客観的関係として条件付けられるものと規定してみてもこの人間存在の深い亀裂はうずめつくすことは出来はしなかった。そこでは、存在と認識とを合体させることこそが我々の文化の最後の問題となるだろうという予感ともつかない信念を、ひそかに語りついでいくことしか出来なかったのである。そのうちに、哲学は哲学内部の問題として分析哲学を育て行動科学へと近接していく過程の内で、思考の論理学の枠内にはめこむことのできない存在の問題を、判断中止という形で放棄してしまおうとする人びとさえも生み出していった。
古典的マルクス主義にしても、主観内部の疎外の問題を論じながら、遂に下部構造(→認識過程)は上部構造(→存在過程)を規定することしか言い得なかったのである。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)