成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2022年01月19日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-192
このように論理を空転させながら、私達は否応もなく現実の状況に生き、状況と深く深くかかわらなくてはならなかった。現実が論理を超えてしまった地点で、私達は私達の生存を遂行していかなければならない。そのとき、状況はあらゆる人間の個人的な存在(=主観的境界)と鋭く対立しはじめたのである。
例えば我が国において、古くから政治と文学論争の渦中で明らかにされてきた政治的な立場は、一定の傾斜を持ちながら、迷える一匹のためには決して後の九十九匹を犠牲にすることはないという分離の思想として、明確ではあるが皮相な論理によって先どりされ、個人と組織の問題という大課題を経て、遂には転向者をめぐる論争として成熟したのである。折からのスターリニズム批判の嵐の中で、あまりに多くの雑音をくわえすぎたきらいはあるにしても、それは政治を人間存在の根本問題と対立するものとして定義するはっきりとした立場の前床となるものであった。吉本隆明、武井昭夫などはその前夜の唄とも言えるものであった。
吉本隆明はまず「戦後思想の荒廃」の叙述として、政治を幻想過程、経済活動を現実過程と規定しようとした。この時期の吉本隆明は上部構造と下部構造とを同質レベルでとらえようとする二元論の構図を持っていたことは確かであった。しかし、吉本隆明がその後『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論序説』へと突き進んでいくとき、幻想問題は次々とその外延を拡張させていく。幻想の対概念も“現実”ではなく、“生活”へと移っていく。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)
2021年12月21日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-191
私達はいま、何故存在の問題について固執しようとしているのか。
現代社会の、極端に認識的な論理の構造のなかに組み込まれてしまっている日常には、もはや真の意味での人間的深みは期待できないというただそれだけの理由で、存在の問題が提起されているのだろうか。
存在と認識の二元論的把握はデカルトの心身二元論以来の哲学の根本問題であった。この“存在”を「生への意志」と呼ぼうが「権力への意志」と呼ぼうが、「自我」と言いならわそうがその本質はかわらない。“存在”は、徹頭徹尾存在の論理学の範疇で“存在”とは何か、ということだけを問題とする。私にとって真の“存在”とは何か。私は何故ここに在るか。しかし、哲学の内で二元論は既に二元論以外の何ものでもなく、人間存在の中で、この二元論が突如として平衡状態を保つことの真の理解は誰からもなされなかった。存在は自我の内にあり、主観の内部のものであり、認識とは他者であること、客観的関係として条件付けられるものと規定してみてもこの人間存在の深い亀裂はうずめつくすことは出来はしなかった。そこでは、存在と認識とを合体させることこそが我々の文化の最後の問題となるだろうという予感ともつかない信念を、ひそかに語りついでいくことしか出来なかったのである。そのうちに、哲学は哲学内部の問題として分析哲学を育て行動科学へと近接していく過程の内で、思考の論理学の枠内にはめこむことのできない存在の問題を、判断中止という形で放棄してしまおうとする人びとさえも生み出していった。
古典的マルクス主義にしても、主観内部の疎外の問題を論じながら、遂に下部構造(→認識過程)は上部構造(→存在過程)を規定することしか言い得なかったのである。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)
2021年11月25日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-190
(4) 各論
① 反精神医学の登場まで
現象学的・人間学的精神医学をめぐって
② 存在の問題をめぐって
a存在と認識の二元論
主観と客観の基礎論
bマルクス主義と存在の問題
マルクス・フロイト・ライヒ・サルトル
c反弁証法としての存在の問題
二元論の再出発・吉本隆明
③ 家族関係論
>レインの言葉による
④ 状況的精神医学
⑤ レインの評価と批判
a分裂病か分裂病様反応か
Ⅰborderline personalityの問題
Ⅱ人間学的精神現象学への批判
Ⅲアンリ・エイのレイン批判
bアメリカ精神医学界におけるニューレフトの評価
c新左翼内部からのレイン批判
神秘主義か観念論か
⑥ レインにおける詩の問題
a詩か表現か
bメタ言語としてのレインの表現
c実存に基づく現実への投企としての詩
ヤスパース→悲劇
ハイデッカー→詩
サルトル→社会評論と小説
d松下昇の表現のこと
⑦ 今後にのこされた課題
a状況のなかの現象学的精神医学を!
bF・ファノン論
「最初に非存在という状態を漠然と感じるのは、乳房とか、母親が不在だということであったと思われます。これはフロイトの言葉であったように思われます。ウィニコットは『穴』について、つまり乳房をむさぼり吸うことによって無を創造することについて書いています。またピオンは思考の起源を乳房不在経験に結びつけています。サルトルの言葉では、人間は存在を創造するのではなく、むしろ非存在を世界の中へ、存在の本来的充実の中へと挿入するのです。」(『経験の政治学』)
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)
2021年11月02日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-189
この小論のなかで、レインのかかえている問題のすべて、また反精神医学をめぐる解釈のすべてを書きつくすことは不可能である。私は敢えて、論理を分解したところからはじめようと思う。そのために、私の構想の中にあったレイン論について簡単に図式しておきたい。次に述べる構図は私が本年一月、「詩と反精神医学」という題名で行った講議のサブノートである。
(1)レインの紹介
(2)反精神医学の立場について
エスターソン・クーパー・サス
(3)レインの反精神医学の構造
① 存在論的 → 実存的色彩
② 家族関係論と二重拘束の理論
家族の役割・ベイトソンの理論
③ 社会精神医学的・新左翼的
キングスレイホールの実践
④ レインにとっての詩
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)
2021年10月14日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-188
何故、今、レインなのか?
昭和49年に雑誌『詩と思想』十月・十一月合併号に「詩と反精神医学と――あるR・D・レイン論のこころみ」を書いてから、私は数多くの個人的意見や示唆的なはげまし等をもらうことになった。限られた条件のなかで書きあげた論考なので、私にも心残りのする表現の箇所もあって、より形のととのったものとしてR・D・レイン論を書きたいという私の願いは日々強烈なものとなっていった。
また、ここ半年間のなかで我が国に於ける、レイン等の反精神医学へと一括され得る運動の位置が少なからず変化してきている。
レインの著作にしても、その代表的論考とも言うべき『経験の政治学』が訳され、相前後して私が先の文章の中でとりあげた『結ぼれ』という詩集(表現集)も訳が出版されたことによってレインを理解出来る人々が層を増しつつある現状である。
さらには、フロイト以後の精神分析的流れのなかでは、少くとも正統派ではあり得なかったエリクソンの自我拡散症候群の問題や、イギリスに於けるクライン、ガントリップ、またレインもその一員であったタヴィストック人間関係研究所の業績についてもかなり一般的に知られるようになってきた。こうしたなかで、クーパーの代表的著作であった「反精神医学」(Psychiatry and Anti-Psychiatry)が訳され出版されることになった。
しかし、こうした現象的な変化よりも、より本質的な意識の変化が確実に存在して、私達を常に問題提起の淵へと追いたてるのである。日本に於ける反精神医学の運動、そしてその母体となった精神医療研究の試行が、次第にその規範を変化させ、より人間的な存在の深みに沈み込もうとしているとき、「何故、いまレインなのか!」という声とは正反対に、再びレインを問いなおす作業がどのような意味を持つものであるか私達は深く考えるべきなのだ。新しいレイン論、新しい反精神医学論は、困難な場所からの要請でなければならないと私は思う。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)